大関・栃ノ心の遅咲き出世は「吉」か? 三十路のキャリアと覚悟は頂へ通ず

荒井太郎

巡業部長の交代劇が、栃ノ心に味方

昇進伝達式での口上は「親方の教えを守り、力士の手本になるように稽古に精進します」 【写真は共同】

 千秋楽から3日後、臨時理事会を経て「大関栃ノ心」が正式に誕生した。

「親方の教えを守り、力士の手本になるように稽古に精進します」

 昇進伝達式の口上では珍しい「親方」という言葉を入れることは、本人のたっての願いだった。「18歳になる前、日本に来て日本のことも日本語も知らなくて、親方にゼロから教えられたので入れたかった」とその理由を語ったが「力士の手本となるように稽古に精進する」という文言も、いかにも栃ノ心らしい。

「なかなか言えないと思うけど、栃ノ心に至ってはまさに稽古で上がってきた力士。ピッタリな言葉だと思いますね」と師匠の春日野親方(元関脇栃乃和歌)は感心する。

 力士に「稽古は好きか」と尋ねれば、100人中99人は「嫌い」と答えるに違いない。誰も好き好んで厳しく辛い状況に、自ら進んで身を置くことはしないだろう。痛いところがあれば、なおさらだ。「強くなりたい」というモチベーションがあるからこそ、嫌いでも何とか耐えることができるのだが、栃ノ心の場合は若干、違うようだ。

「稽古は嫌いじゃないからね」といつも、さらりと言いのける。

 昨年の冬巡業は急遽、師匠が巡業部長代行として帯同することになった。師匠が土俵下から睨みをきかせれば、弟子は稽古をやらざるを得ないのはこの世界の常。栃ノ心は毎日、稽古土俵に上がり続けた。だからこそ、今年初場所の初優勝に結びついたとも言えるだろう。

 しかし、本人は「汗をかくのは好きだし、無理はしないけど稽古はやりたいからね」と親方が見ていようがいまいが、やることはしっかりやるタイプなのだ。

遅咲きの欧州出身大関は史上初

30代となった栃ノ心を「今が最も脂の乗り切った時期」と師匠は評する 【写真は共同】

 三役も経験しながら右膝の靭帯を断裂する重傷を負い、いったんは幕下下位まで番付を落とした。手術、リハビリという絶望的な日々を過ごしながらも腐ることなく、苦しい時期を乗り越えると地道に稽古を重ね、再び這い上がってきた。下半身を中心に基礎を徹底して鍛え直したことで力任せの相撲から、おっつけて低い位置の上手を取るなど理にかなった技量も身につけ、ケガをする前よりも実力は磨かれていった。

 欧州出身の大関としては、琴欧洲、把瑠都に次いで史上3人目。前者2人は20代前半に若くして大関に昇進し、横綱を大いに期待されながら、天皇賜盃は抱いたものの、もともと持っていた素質を十分に開花させたとは言い難かった。ともに膝に“爆弾”を抱えていた身であり、本来の相撲を存分に取ろうとしても、無意識のうちに“ブレーキ”がかかっていたのかもしれない。

 栃ノ心の30歳7カ月での大関昇進は、年6場所制が定着した昭和33年以降では史上4位の年長記録。新入幕から所要60場所は史上1位タイのスロー出世とまさに“遅咲き”だが、かえってそれが今後は“吉”と出るのではないだろうか。

 栃ノ心も膝に重傷を負ったという点は、欧州出身の先輩大関2人と共通するが手術も施し、不安は全くないわけではないだろうが、取り口には持ち味が余すことなく発揮されていると言えるだろう。キャリアを十分に積んでの昇進は、逆に残りの相撲人生に全てを懸ける覚悟も芽生えてくるに違いない。

 さらに上の地位についての意気込みを問われると「まだ考えてない。自分の相撲を取るだけ」と語るにとどまった。それでも「今が最も脂の乗り切った時期」と師匠に言わしめた三十路男には、史上初となる欧州出身の「日下開山」を期待せずにはいられない。

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著者プロフィール

1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、百貨店勤務を経てフリーライターに転身。相撲ジャーナリストとして専門誌に寄稿、連載。およびテレビ出演、コメント提供多数。著書に『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』『歴史ポケットスポーツ新聞 プロレス』『東京六大学野球史』『大相撲事件史』『大相撲あるある』など。『大相撲八百長批判を嗤う』では著者の玉木正之氏と対談。雑誌『相撲ファン』で監修を務める。

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