パラスノボ・成田緑夢が踏み出す一歩 平昌で目指すは2種目での金メダル

荒木美晴

「成田3きょうだい」の末っ子がなぜ?

平昌パラリンピックから正式競技になったスノーボード。成田緑夢はスノーボードクロス、バンクドスラロームの両種目で初代王者になるかもしれない 【写真は共同】

 3月9日に開幕する平昌パラリンピック。五輪と同じ会場を使い、6競技・80種目が行われる。今大会から新競技に採用されるのが、パラスノーボードだ。

 実施される種目は、連続したバンクなどで構成されたコースを複数の選手で同時に滑走してスピードを競うスノーボードクロス、旗門を設置したコースを3回滑りベストタイムを競うバンクドスラロームの2種目。障がいの程度によって、ひざ上から下肢障がいのあるSB−LL1、ひざ下のSB−LL2、上肢障がいのSB−ULの3つのクラスに分けられる。

 男子LL2のこの2種目で、いずれも世界ランキング1位の座についているのが、日本代表の成田緑夢(近畿医療専門学校)だ。成田は今季ワールドカップ(W杯)最終戦の2月のカナダ大会で2冠達成と、好調を維持する。昨年3月に韓国で行われた平昌パラのプレ大会でもバンクドスラローム、スノーボードクロスともに表彰台に上がっており、本番でも金メダル獲得が有力視されている。

 成田がスノーボードを始めたのは1才の頃。1998年長野五輪ではスノーボードのデモンストレーターを務めた。兄と姉はトリノ五輪(2006年)でスノーボードハーフパイプに出場しているスポーツ一家だ。「緑夢(ぐりむ)」の名前に聞き覚えがある人もいるかもしれない。そう、彼は父親の熱血指導で知られる「成田3きょうだい」の末っ子だ。

 そんな彼がなぜ、パラリンピックに挑もうとしているのか――。話は少し前にさかのぼる。

左脚に障がい負うも、進むべき道が明確に

 成田は幼いころから、スノーボードだけでなく、トランポリンも練習していた。スノーボードにおける空中での姿勢や感覚を磨くためだ。高校2年の時に全国大会で優勝し頭角を現すと、12年ロンドン五輪の日本代表最終選考に残った。さらにフリースタイルスキーでは、13年3月の世界ジュニア大会のハーフパイプで優勝するほどの実力で、夏と冬の五輪出場を目指していた。

 ところが、頂点に立ったその翌月、彼に想像もしない試練が襲いかかる。

 両足首に2.5キロずつの重りを付け、トランポリンで宙返りの練習をしていた際、体勢を崩して落下。着地に失敗し、「左ひざが逆に曲がった」。前十字靭帯などを損傷し、動脈も切れる大けがだった。入院は半年、手術は4度行った。切断こそ免れたが、左脚の足首は曲がらず、ひざから下の感覚を失う「腓骨神経まひ」という障がいが残った。

 その後、スキーやウェイクボードを再開するなかで、「ケガをしても頑張っている姿に勇気をもらった」と障がいを持った人からメッセージをもらい、自分が進むべき道が明確になった。

「障がいを持っている人、ケガをして引退を迫られている人、一般の人に夢や感動、希望、勇気を与えられるアスリートになりたい」

 目標を掲げ、成田は再びアスリート人生の一歩を踏み出す。

 15年のパラアスリート発掘事業に参加し、パラ陸上で走り高跳びを始めた。さらに本格的にパラスノーボードにも挑戦。いきなり国内の大会で優勝して日本障害者スキー連盟幹部の目にとまり、W杯に参戦することに。そして初出場の16年11月のオランダ大会のバンクドスラロームで4位の成績をおさめると、その勢いはさらに増し、世界選手権でも表彰台に乗った。

 飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続ける成田だが、過去に培った技術だけでここまで登りつめたわけではない。障がいと向き合い、試行錯誤して自分の滑りを模索してきたから今があるのだ。

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著者プロフィール

1998年長野パラリンピックで観戦したアイススレッジホッケーの迫力に「ズキュン!」と心を打ち抜かれ、追っかけをスタート。以来、障害者スポーツ全般の魅力に取り付かれ、国内外の大会を取材している。日本における障スポ競技の普及を願いつつマイペースに活動中

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