マラソン挑戦で悪循環を脱した村澤明伸 結果を逆算せず、日々の積み重ねで頂点に
北海道マラソンでMGC出場権獲得
19年9月以降に予定されているMGCの出場権獲得第1号となった村澤明伸 【スポーツナビ】
「初マラソンだった3月のびわ湖毎日は行けるところまで行ってみようという感じだったので、28位でゴールし、ゴール後は担架で運ばれる結果だったけど、自分の中では『あぁ、35キロまでしか持たなかったか』というくらいの気持ちでした。『1キロ3分のペースだとこのくらいまでしか行けないのか、このペースは自分にはまだ早いんだな』というのが分かったというのが一番大きかったですね。それで『何分ペースだったら42.195キロを走り切れるのか』というのを考えることができたので、北海道はびわ湖とは逆に、42.195キロをしっかり走り切るというイメージで走りました」
こう話す村澤は北海道では、25キロを過ぎて丸山文裕(旭化成)などが動いた時も「これで行かれたらしょうがない」と自分のペースを守った。35キロ手前で彼らに追いついた時も「アッ、前は行き切れなかったんだな」と思ったくらいだった。その結果の優勝であり、チームの白水昭興総監督が予想していた2時間15分から前後1分という走りだったのだ。
「今年からMGCシリーズという形になって資格記録を破りましたが、例年に比べても特段速い記録ではないし、大会記録はもっと速いから、あの結果で何かを感じるとか東京五輪へ向けて何かを考えるというのは正直ないです。確かに権利を獲ったことでいろいろな挑戦ができるというのは一つの大きなアドバンテージですけど、そこまでに走るマラソンでは確実に出場権獲得と設定されているタイムは切っていかなければいけないと感じているので。このあとのレースには心に余裕を持って出られるというのはあるけど、一つ一つのレースを大切にしていかなければいけないと思っているだけです」
大学3年からケガを繰り返してしまう
北海道マラソンでは2時間14分48秒で優勝。フルマラソンをしっかり走りきる気持ちで臨んだ結果が実を結んだ 【写真は共同】
東海大へ進んでからも1年から活躍して2年の箱根駅伝では2区で17人抜きを演じて日本人歴代3位の1時間06分52秒で区間賞を獲得して注目された。だが3年になった12年4月に1万メートルで27分50秒を出したあとは調子を落とし、4年時には故障で箱根駅伝予選会を走ることができずチームも本戦出場を逃した。
さらに実業団に入ってからも高校の先輩と後輩である佐藤悠基(日清食品グループ)と大迫傑(ナイキ・オレゴン・プロジェクト)が世界の舞台に駒を進めるのに対し、なかなか結果を出せない時が続いていた。
「大学3年から捻挫を繰り返したりあちこちを痛めたりして年間を通して練習できなかったというのはありますね。それに社会人2年目には前に痛めていたアキレス腱を再び痛めたりし、そのあともいろいろな故障が続いてそれを長引かせてしまっていました。でもそういう中でも大きな大会には逆算して付け焼き刃で仕上げていくこともしていたので、それでいつの間にか体にも無理がかかっていたのだと思います。ニューイヤー駅伝だったら4区を区間5〜6番だったり、日本選手権も入賞レベルまで持っていくことはできたけど、そういうレースを終えるとまた痛みが出てくるというのは毎年でした」
高校から大学1〜2年までは故障もほとんど経験したことがなく、3年の時の捻挫が初めて長期間練習を休まなければいけないケガだった。それまでが大きなケガをしなかったことで、故障に対する心構えや知識もない状態。今ではギリギリのところまで攻めても故障は防ごうと思えば防げるものだと考えるようになったが、その当時はどうすればいいか分からなかったという。結局、高校時代から大学2年まで積み上げていた土台を、消費するような形になってしまったのだ。