不思議な団体『Iジャ』の歴史 東京03豊本のプロレスあれこれ(21)
今年11月に幕を下ろすIWAジャパンの歴史について振り返ってみます 【スポーツナビ】
今年11月23日横浜ラジアントホール大会が最後になるそうです。
しかしこのIWAジャパン、通称『Iジャ』は旗揚げ当初はデスマッチを軸とする団体だったんですが、団体の色がどんどん変わっていき、多団体時代を生き延びていった不思議な団体なんです。
1994年W★INGが崩壊し、世界的なブッカーのビクター・キニョネスがW★ING所属の選手救済のために立ち上げたのが始まりですが、それが最終的に……。
という事で今回のコラムは、IWAジャパンの歴史についてです。
創設1年で川崎球場大会も!
今ではよく見るデスマッチアイテムである“画鋲”。日本で初めてリング上に画鋲がまかれたのも、このIジャのリングです。しかも画鋲を持ち込んだのがWWEでスーパースターになる前のカクタス・ジャック選手です。
現在の大日本プロレスの高橋匡哉&植木嵩行のタッグチーム名が3代目血みどろブラザーズ。この頃のIジャの中牧昭二&小野浩志が初代の血みどろブラザーズでした。
それもそのはず、カクタス選手をはじめ、テリー・ファンクやタイガー・ジェット・シン、テリー・ゴディ、レザー・フェイスなどなど、こんな選手が来日して来たら迎え撃つ日本人選手は血みどろですよ。
日本人の外敵としてターザン後藤選手も参戦していましたね。
初期のIジャはデスマッチ団体として勢いがすごく、伝説の川崎球場でのデスマッチトーナメント(95年8月)も行いました。
旗揚げ翌年に川崎球場ですよ? すごいです。
若手社長の成長を見守る団体に進化
そしてその後、当時Iジャの若手だった現在のバッファロー選手が社長に就任。
ザ・グレート・カブキ選手が参戦し、素顔のバッファロー選手の試合にダメ出しするという教育マッチを行い、若手社長の成長を見守る団体になります。
このあたりから既存の団体にあるようなカラーではなく、独自の進化?(変化?)を遂げていきます。