陸上日本“ヨンパー”陣への提言 次なる進化のため新しい発想を

折山淑美

世界と戦えない状況が続く400mハードル

過去には為末大が2大会でメダルを獲得した400mハードル。今年の世界陸上では安部孝駿(写真)が準決勝に進んだが、世界のトップとは戦えなかった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 かつては世界選手権で為末大が2度銅メダルを獲得している陸上の男子400mハードル。

 世界選手権にはこれまで第2回ローマ大会から毎回2〜3名の選手を送り込んでいる日本だが、本番で48秒台を出した選手は07年大阪大会の準決勝第1組で5位になった成迫健児の48秒44以来途絶えている。09年ベルリン大会では吉田和晃、11年テグ大会と13年モスクワ大会では岸本鷹幸、15年北京大会では松下祐樹が準決勝に進んでいるが、最高位はテグ大会の第1組7位(岸本)と世界と戦えない状態が続く。

 今年のロンドン大会も4大会連続となる3枠フル出場を果たしたが、石田裕介と鍛治木崚は50秒35と51秒36で予選敗退。安部孝駿は準決勝に進んだが、49秒93で第2組5位で敗退と実力を出し切れず。決勝進出ラインが49秒13とレベルは下がっていたが、そのチャンスすら生かせない結果に終わったのだ。

 そんな今の男子400mハードルの現状をどう見るのか。苅部俊二や斉藤嘉彦らとともにこの種目の新しい時代を切り開き、95年ヨーテボリ大会では同種目初の決勝進出を果たして7位になり、95年と99年の2度に渡って日本記録を樹立。今回の世界陸上ロンドン大会では日本陸上競技連盟の強化委員会トラック&フィールドディレクターとして帯同した山崎一彦氏に当地で話を聞いた。

「世界で戦うこと」が当たり前だった時代

「3番手」という状況を打開するため、海外に目を向けた山崎氏。過去には『世界で勝たなきゃ』が当たり前だった時代もあった 【スポーツナビ】

「僕たちの頃は世界に行かなきゃダメだというので、日本チャンピオンとか日本記録はありましたが、評価は日本ではなかったですね。それというのも自分たちには『ライバルは長距離・マラソン』というのがありました。同じような成績を出しても、社会や陸上界で優遇されるのは長距離・マラソンで、僕たちは標準記録を突破しても『ヨンパー(400mハードル)は2名でいい』と、五輪には(3枠の)フル参加させてもらえない時代もありました。ですので、参加するだけでは認めてもらえないなという気持ちでした。ちょうど運良く同学年の斉藤が91年に日本記録を出して風穴を開け、苅部さんも出てきてライバルがいたし、僕自身も92年バルセロナ五輪に出場できましたが、就職となると長距離をやっているような会社は『1番じゃないだろ、2番手、3番手では』と言われて全部ダメで……。それが悔しくて『じゃあ世界へ出てやったらどうなんだろう』と考えたのが原動力になっていたんです」

 91年東京大会では苅部が準決勝進出を果たし、93年には斉藤と苅部が48秒台に入った。94年までは斉藤と苅部が1番手と2番手で、山崎は3番手という状況が続いた。

 日本陸上競技連盟の支援を受けられるのも2人までだったこともあり、山崎は海外に目を向けた。
「彼らと同じ練習をしても追いつかないから、何か違うやり方はないかなと思って。それで『海外でのパフォーマンスをあげれば、彼らに勝てるようになるかな』と感覚的に思ったのが原点ですね。ただ、同じ大会に出ても2人は陸連派遣で団体行動ですが、僕はそうではないので単独行動ということもありました。その時は本当に辛かったのですが、あとで考えれば、個別性というのはできたし、自分で何でもやれるようになったし。ちょっとやそっとでは動じなくなったと思います。だから多分、陸連の支援を受けないで世界選手権のファイナリストになったのは僕だけだと思いますね(笑)。区別されることへの劣等感はありましたが、それが良かったと思います。でも今はそういう区別がなくなっています。標準記録を切ればその権利を認められるようになっているし、五輪や世界選手権に出れば一人前の選手として扱われ、サポート面も十分になる。僕らを見てきた為末までは『世界で勝たなきゃ』とか『世界で戦うのがカッコいい』というところがあったし、だからこそメダルにつながったんだと思いますが、今はそれがリセットされてしまっている状態だと思います」

タイムが上がっていることで“錯覚”に陥る

 山崎の世代や為末の活躍で400mハードルが認知され、取り組む選手が増えたのも事実だ。だがそれとともに04年からの10年間くらいは、世界に挑戦しようとする選手も減ったと山崎は言う。それなりの記録を出しても、世界と勝負したり、海外で順番をつけるレースをするという経験がないため、今回の世界選手権に出場した選手たちを見ても、予選をどうやって走ればいいか分からず準決勝がどういう雰囲気になるかも想像がつかないような状態になってしまっていた。

「確かに日本のヨンパーのレベルは上がっていますけど、みんな錯覚に陥っていますね。日本選手権の決勝に残るには49秒台じゃないといけなくなっているので、一般的に見れば『すごく厳しいな』となります。でも僕らの時代は51秒台でも残れましたが、勝つのは48秒だった。代表になるには48秒じゃないとダメということで、決勝ラインではなく、その先を見ていました。でも今の選手たちは日本選手権の決勝に残ることしか考えていません。だから今年の日本選手権のように予選で標準を破った選手が、決勝では下位に沈み、代表決定が次の試合になって持ちタイム順では決まらないような逆転現象が起きてしまうんです。何か、国内選考だけで完結させている感じで、僕らの少し前の時代に戻ってしまったような感じがしますね。
 海外へ行くことだけが良いとは言えませんが、それは志の問題で……。そのくらいの行動力や気持ちを持って『世界でどう戦おうか』という選手は、今はほとんどいないんじゃないかと思います」

 山崎自身、技術的なものや練習方法に関していえば、ケガもした競技人生終盤頃には効率的な練習方法など参考になるものはあった。しかし、最初の頃は海外だからといって参考になるものはなかったと言う。

「例えば米国に行くと、最初は『すごいな』という感覚に陥るんです。でもそのうち『アレッ。自分も米国よりすごいんじゃないかな』という感覚になりました。それでもうちょっと行ってみると、良い所と悪い所が明確に見えてきます。それで『米国じゃないな』とヨーロッパへ行くと、向こうは歴史もあるのでベーシックでキチッとやっているのも分かるし、自分の良さも足りない所も分かり『これをずっとやっててもダメだな』というのも分かるので。一般的には体力に限界はないと言いますが、僕は体力にも限界があると思っているので……。自分の骨格は決まっているのでそのフレームにどれだけ収めても、出力は決まっているし、それ以上やると溢れてくる。それに気づいたので技術的なものを磨いたり、どこに行ってもパフォーマンスを上げられるようにしようとして。そうすれば何回かに1回は当たってくるんじゃないかなと思ったんです。そのためにはいつどこでやっても踏み切りがピタッと合う、ハードルを絶対に倒さないという日本人の技術の高さしかない。実際、僕はハードルを倒したことはないのですが、それは高校やジュニアの過程でやってきた技術が集まっているものだと思います。それで『俺の技術はこんなにすごいんだ』と感じました。専門的な体力の必要性も分かり、ハードルに特化したものをやればいいと考えて、自分の基礎能力が劣っているのが分かっていたので、そういうこだわりを持てたのが良かったと思います」

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著者プロフィール

1953年1月26日長野県生まれ。神奈川大学工学部卒業後、『週刊プレイボーイ』『月刊プレイボーイ』『Number』『Sportiva』ほかで活躍中の「アマチュアスポーツ」専門ライター。著書『誰よりも遠くへ―原田雅彦と男達の熱き闘い―』(集英社)『高橋尚子 金メダルへの絆』(構成/日本文芸社)『船木和喜をK点まで運んだ3つの風』(学習研究社)『眠らないウサギ―井上康生の柔道一直線!』(創美社)『末続慎吾×高野進--栄光への助走 日本人でも世界と戦える! 』(集英社)『泳げ!北島ッ 金メダルまでの軌跡』(太田出版)ほか多数。

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