天理の元プロ監督、甲子園初勝利に涙 采配に“笑”は出ずとも一生の思い出

楊順行

天理・中村監督(写真左)は1986年に同校が全国制覇したときの主将で4番。その後、プロ野球の近鉄、阪神を経て、天理大監督で指揮を執り、2015年8月から高校の監督へ。今回、甲子園初采配で見事初勝利を挙げた 【写真は共同】

「まさか……僕が……すみません……」

 言葉が途切れると、天理(奈良)・中村良二監督は思わず涙ぐんでしまった。

「まさか僕が、母校のユニフォームを着て甲子園に戻ってこられるなんて。監督になってから初戦負けもあり、決勝の負けもあり、"僕が監督で大丈夫かな"とも思ったんですが、こんなに早く連れてきてくれた。選手たちには試合前に、"ありがとう"とお礼をいいました」

主将・4番でV、2軍で100本塁打

 1986年夏、主将・4番として天理の初優勝に貢献すると、高校通算41ホーマーの長打力をひっさげ、近鉄にドラフト2位で入団した。だが、2軍で通算100本塁打を記録するも、1軍ではなかなか結果を残せず、移籍先の阪神で1997年に現役を引退している。

 その後シニアリーグの指導者などを経て、天理大野球部の監督になったのは、2008年8月のこと。当時阪神リーグ2部だったチームを翌秋1部に引きあげると、13年にはリーグ優勝し、大学選手権でも1勝した。

 14年2月には天理高のコーチに、そして15年8月に監督に。阪神に所属していた元プロ野球選手が、高校野球の監督として甲子園に”戻る”のは史上初めてのことだそうだ。

 いや、厳密にいうと、実は初めてではない。昨年12月。86年の天理の優勝メンバーが甲子園に集まり、松山商と決勝戦の再戦を行っているのだ。中村自身は高校野球の監督のためプレーはしなかったが、懐かしい顔ぶれをベンチから見守った。ちなみに試合は、当時と同じように、天理が逆転勝ちしている。

「手に持って場内を一周した優勝旗の重みは、いまだに記憶にあります」と中村監督が言う86年の優勝は、やはりのちにプロ入りした山下和輝(元阪神)らがいて、強打が注目されるチームだった。

 ウンチクをいえば、トレーニングジム「ワールドウイング」小山裕史氏の指導でパワーをつけた体が、その土台にある。イチローらのトレーニングを担当し、いまやよく知られる小山氏だが、もともとは陸上が専門。野球と取り組んだのは、このときの天理がほとんど初めてだったのだ。

後継者の4番が2打席連続本塁打

 さて。初戦に臨む中村監督の帽子のひさしには、「笑」と一文字書いてある。優勝時の監督にして、中村を監督に推した恩師・橋本武徳氏が前日、「お前が笑ろとけば勝てる」と書いてくれたものだ。

「この1年間、相当厳しく指導してきたんです。(城下力也)キャプテンを泣かすくらいに……。試合中にもついつい厳しい顔になるものですから、“笑”と書いてくださったんでしょう。相手・大垣日大(岐阜)の阪口(慶三)監督は大ベテランで、こっちは新米。ただ新聞の取材では、“お互い思い出に残る試合に”と話しました」

 試合は2回、いきなり動いた。勝負強さを買い、自身の高校時代と同じ4番に固定した神野太樹の、バックスクリーン右に打ち込む先制ソロアーチだ。奈良大会はチーム打率3割6分0厘、5本塁打と伝統の強打はそこからも、神野の2打席連続アーチなどで加点し、試合を優位に進める。「どうしてもネガティブなことを考えるし、立ち上がりは緊張していた」という中村監督だが、神野の2本目のアーチで多少はほぐれたという。

「1点目は出合い頭ですから、それほどダメージはないでしょう。ただ2本目はね、相手がチャンスを逃しているだけに、効果的だったと思います」

打つ手がすべてはまっての快勝

 さらに5回には、ショートで軽快な守備を見せる太田椋の犠牲フライでリードを5点に。その太田は、「相手投手の代わり端の初球。まず真っ直ぐでくるだろう、外野フライを打つには高めにゾーンを上げて……と狙っていたとおり。自分では、なかなか大きな1点だったと思います。監督はさすが元プロで、技術はもちろん経験が豊富ですよね。日常の練習から視野が広い。いろいろなところに目が行き届くんです」。

 たとえば8回には、1死三塁とした直後のこれも初球、城下がスクイズに成功している。このダメ押しの6点目には、老練な阪口監督も「あちらはすべてうまくいき、こっちはすべてうまくいかなかった」と舌を巻くしかない。さらに投げては、思い切りの良さで先発に抜擢した2年生・坂根佑真が、9安打されながら要所を締めて完封と、確かに中村監督の打つ手はすべてうまくはまっていた。

 終わってみれば、テンポのいい試合は6対0と快勝。

「一生残るいい思い出になりました。それでも……試合中はさすがに、恩師が言うような“笑”ではいられませんでしたね」

 中村監督、目は潤んだまま笑顔になった。
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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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