四半世紀で様変わりした移籍市場 歴史に残るビッグディールを振り返る

片野道郎
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提供:スポナビライブ

記憶に残る移籍はどれ? 歴史的なビッグディールを振り返る 【Getty Images】

 移籍マーケットは、ピッチ上で展開される試合と同じくらい、時にはそれ以上にサッカーファンを一喜一憂させてくれる。

 ピッチ上の試合は、90分間でいや応のない結果を突きつけてくるし、それが積み重なるにつれて見えてくるシーズンの行方は、喜びよりも落胆をもたらすことの方がずっと多い。なにしろ、優勝するのはたった1チームであり、残りはすべて敗者なのだ。

 タイトルを祝うことができなかった多くの人々は、その落胆の中にも小さな喜びを見いだして自らを勇気づけ、来年こそは、と密かに意気込む。移籍マーケットは、そんな人々に次のシーズンに向けた希望と活力を与えてくれる。「次はどんな選手がやって来るのか?」「どんなチームになるのか?」。シーズンが始まって結果を目の前に突きつけられるまでは、誰でも好きなだけ夢を見ることができるのだ。

ポグバの価値はカントナの約75倍!?

カントナのマンU移籍から24年、ポグバの移籍金は約75倍にも膨れ上がった 【写真:ロイター/アフロ】

 英国制作の番組『FOOTBALL COUNTDOWNS』が取り上げている10の移籍事例は、その意味で人々の心を大きく揺さぶった歴史的なビッグディールばかりだ。

 時系列でいうと、最も古いのはプレミアリーグの創設初年度、1992−93シーズンのエリック・カントナ(リーズ→マンチェスター・ユナイテッド)だ。審判侮辱で長期の出場停止処分を受けたフランスを飛び出してイングランドのリーズに移籍し、シーズン後半の躍進に貢献して歴史的なリーグ優勝に導いたのがこの前年のこと。にもかかわらず、それからわずか半年後の92年11月にサポーター同士が敵対関係にあることで知られるマンUに移籍したのだから、反響は大きかった。この時26歳だったカントナはその後の5シーズン、マンチェスターでさまざまな伝説を築くことになる。

 いま振り返ってみると驚かされるのは、この時の移籍金の安さだ。120万ポンド(約1億8000万円)というのは、同じマンUが24年後の16年夏、ポール・ポグバの獲得に費やした8900万ポンド(約130億円)の約75分の1にすぎない。四半世紀の間に、移籍金の相場が75倍にも膨れ上がったわけだ。欧州のプロフットボールが、過去20年あまりの間にビジネスとしてどれだけ巨大化したかを象徴する数字である。

「移籍金バブル」で毎年跳ね上がったビエリの移籍金

移籍を繰り返すたびに、ビエリの価値は跳ね上がった(写真は98年夏のラツィオ移籍時のもの) 【写真:ロイター/アフロ】

 移籍金の相場が跳ね上がる最初のきっかけを作ったのは、カントナの移籍から3年後、95年12月に欧州司法裁判所が下した「ボスマン判決」だった。

 ベルギーリーグでプレーしていたひとりの無名選手が、自らの移籍をめぐる所属クラブとのトラブルをきっかけに、ベルギーサッカー協会とUEFA(欧州サッカー連盟)を相手取って訴訟を起こし、EU(欧州連合)域内における国際移籍の自由化(EU国籍選手に対する外国人枠の撤廃)、そして契約満了に伴う移籍の自由化(クラブの選手保有権喪失)を勝ち取ったのだ。

 この「2つの自由化」は、欧州の移籍マーケットを一気に流動化・活性化し、それが選手獲得競争の過熱、移籍金相場の上昇、グローバリゼーションとビジネス化といった、90年代後半以降の欧州プロサッカーの流れを決定づけることになる。

 その流れの中で最初に「移籍金バブル」が起こったのは、90年代末から00年代初頭にかけてのことだ。先鞭(せんべん)をつけたのは、当時「世界で最も美しいリーグ」と呼ばれ、世界中のスター選手が集まっていたイタリア・セリエA。そのシンボルとも言えるのが、当時イタリア代表のエースストライカーだったクリスティアン・“ボボ”・ビエリだ。96−97シーズンから99−00シーズンまで、毎年移籍を繰り返して4つのクラブを渡り歩いたビエリの移籍金は、たった3年間で10倍以上に跳ね上がった。

・96年(アタランタ→ユベントス):380万ユーロ(約4億9000万円)
・97年(ユベントス→アトレティコ・マドリー):1760万ユーロ(約22億8000万円)
・98年(アトレティコ・マドリー→ラツィオ):2850万ユーロ(約37億円)
・99年(ラツィオ→インテル):4550万ユーロ(約59億円)

史上最高額を更新し続けたペレス会長

ペレス会長(左)はバルセロナから当時の史上最高額でフィーゴを引き抜いた 【写真:ロイター/アフロ】

 この時代の「移籍金バブル」のハイライトといえば、やはりレアル・マドリーの「銀河系軍団」だろう。

 宿敵バルセロナの看板プレーヤーだったルイス・フィーゴの獲得を約束して00年7月の会長選挙に出馬したフロレンティーノ・ペレスは、その公約通り当選直後に6000万ユーロ(77億9000万円)という当時の史上最高額でフィーゴを引き抜く。そして翌年夏には、その最高額を更新する7350万ユーロ(95億5000万円)でユベントスからジネディーヌ・ジダンを獲得すると、そのジダンの伝説的なボレーシュートによってレバークーゼンとのチャンピオンズリーグ(CL)決勝を制し、欧州の頂点に立ったのだった。

 皮肉だったのは、ジダンを売却したユベントスもまた、巨額の移籍金収入を元手に戦力を大幅に増強し、一時代を築いたことだ。ユベントスは、ジダンの売却益を、ジャンルイジ・ブッフォン、リリアン・テュラム(共にパルマ)、パベル・ネドベド(ラツィオ)という3人のトッププレーヤーに分散投資。翌02−03シーズンのCL準決勝では、ブラジル代表のエース・ロナウドを戦列に加えてさらに「銀河系度」を増したレアル・マドリーをそのネドベドのゴールなどで下し、決勝に勝ち進むというドラマを演じた。

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著者プロフィール

1962年仙台市生まれ。95年から北イタリア・アレッサンドリア在住。ジャーナリスト・翻訳家として、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。2017年末の『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)に続き、この6月に新刊『モダンサッカーの教科書』(レナート・バルディとの共著/ソル・メディア)が発売。

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