連載:東京五輪世代、過去と今と可能性

“年上キラー”岩崎悠人の持つマインド 東京五輪世代、過去と今と可能性(4)

川端暁彦

今季から京都でプレーするゴールデンルーキー・岩崎悠人。目前に迫ったU−20W杯への思いを明かした 【写真:川端暁彦】

「U-23」という独特のカテゴリーで行われる五輪の男子サッカー競技。2020年の東京五輪まであと3年と迫った今年、この選手たちが5月20日に開幕するU−20ワールドカップ(W杯)という初めての大舞台を迎える。この連載では、そんな「2020年」のターゲットエージに当たる選手たちにフォーカス。彼らの「これまで」と「未来」の双方を掘り下げていく。

 第4回に登場するのは、今季京都橘高校から京都サンガF.C.に加入したばかりのゴールデンルーキー・岩崎悠人。各クラブが壮絶な争奪戦を繰り広げた選手にふさわしく開幕から“戦力”として躍動し、4月29日のJ2第10節の大分トリニータ戦にて鮮やかなボレーシュートから待望の初ゴールをたたき込んでみせた。明朗快活、一部で“年上キラー”とも言われる新星に、ここまでの歩みとこれからの夢を大いに語ってもらった。 (取材日:2017年4月25日)

恩人は近所のお兄さん!?

年上に溶け込むのがうまい岩崎(中央)。近所のお兄ちゃんが恩人だと語る 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

――出身は滋賀県彦根市ですよね。サッカーを始めたのは?

 小学生のときです。とにかく体を動かしたくて、小1で始められるのがサッカーしかなかったんですよ。野球も考えたんですけれど、(入れるのが)2年生からだった。金城JFCという彦根市の中では結構強いチームです。スタッフがすごく明るくて、ユニホームもオレンジで、楽しくて温かいチームです(笑)。

――そのころからポジションはFW?

 小さいころはポジションはなかったですが、小5からはボランチやトップ下でした。あまり前(のポジション)ではやっていないですね。攻撃も守備も全部1人でやっている感じで、(プレー中に)味方は意識していなかったと思います(笑)。

――家族はお姉さんがいるんですよね。代表でも京都でも年上に溶け込んでいくのがうまいですけれど、お姉さんがいる影響でしょうか?

 え、マジですか?(同席した広報:うまいです。私たちスタッフの中にも本当に自然に入ってきます)。お姉ちゃんの友達が家に遊びに来たりしていたので、小さいころから年上の人と関わる機会が多かったとは思います。家族構成、大事ですね(笑)。

――今の自分に影響を与えてきた人を家族以外で思い出すとすれば、誰かいますか?

 近所のお兄ちゃんですね! 放課後ずっとボールを蹴っていました。その人とボールを蹴るのが楽しくて楽しくて仕方なかったので、毎日ボールを蹴っていましたから。小2のころから、本当にずっとですね。金城JFCは平日に練習がないチームでしたので、学校から一回帰ってからまた学校のグラウンドに行って、4時から8時くらいまでずっとボールを蹴っていました。めっちゃ楽しかったです。

――その人はいくつくらい?

 僕が小3の時に24歳くらいだったと思います。働いていて、仕事終わりでそのまま来てくれたんです。最初は僕が「一緒に蹴ってくれませんか?」と唐突に言いました(笑)。それからもう、ほぼ毎日ずっと一緒にやってくれました。

――やっぱり年上キラーだ(笑)。恩人ですね。

 はい、その人に(プレーが)作られたんだと思います(笑)。1対1をずっとやっていましたが、全然勝てなくて(笑)。その小学校のOBで。中学も高校も、いまも、ずっと応援に来てくれています。いつも会うたびに「頑張らなあかんな」と思います。ちょっと渋めで、黒っぽい服を着ていて、本当に格好いいですよ!

武器は運動量と“無理を利かせる”プレー

岩崎の武器は運動量、そして体勢が崩れたときに“無理が利くところ”だ 【写真:川端暁彦】

 岩崎は人懐っこい笑顔を浮かべながら、すぐに懐まで入り込んでいく独特のパーソナリティーの持ち主である。「本当に素直な子」とは京都橘の米澤一成監督が1年生だったときの岩崎を評した言葉だが、どうやら「三つ子の魂百まで」という言葉どおり、幼少期から年上にアタックする能力を持っていたようである。縁のあった“近所の格好いいお兄ちゃん”との競り合いの中で、どんな大きな選手にも怯むことなく1対1の勝負を果敢に挑み、少々当たられてもバランスを崩すことなく前に進み、ここぞの場面で“無理を利かせる”ことのできる現在の岩崎のスタイルの原型が作られたのだろう。

 京都の練習場での様子を見ていても、試合中の様子を見ていても、今季から京都に加入した田中マルクス闘莉王が岩崎のことを気に入っているのがすぐに分かる。「いつも見てくれていて、いろいろなアドバイスをしてもらえる」と岩崎が言うように、日本サッカー界のレジェンド選手の薫陶(くんとう)を受けながら、また少しプレーの幅を広げつつあるようにも見える。

――京都には闘莉王がいて、盗めるものがあるのでは?

 トゥーさん(闘莉王)の存在は本当にすごく大きいですね。今日みたいな感じで(前の試合で起きたことを踏まえながら、練習中にアドバイスを送っていた)、いつも見てくれているので、すごいです。めちゃめちゃ「気配り」していただいています(笑)。

――闘莉王はDFでありながら、ストライカーとしてもすごいですね。

 あれは、すごいですよね。余裕があってのものなんだと思います。早くそこに追い付けるように……負けないように、がんばります。

――Jリーグに入っても、ここだったら絶対に負けていないという自分の武器は?

 運動量ですかね。めっちゃ多いですよ、運動量(笑)。この前もあと50メートルで(1試合の走行距離が)13キロでしたから。結構走りました。「走り過ぎちゃうか?」というくらい(笑)。もう少し効率よく動いて、「ここ」というポイントで力を出せればいいかなと思います。気を使って守備のカバーにも入っているし、それ(カバー)もやらないといけないので、勝手に(走行距離が)増えています(笑)。

――中学の終わりごろは駅伝部だったとか。

 そうです。サッカー部の活動が夏で終わりなので、そのあとに駅伝部へ入りました。サッカー部の走れるやつはみんな陸上部に入ります(笑)。駅伝では近畿大会までいって、22位でした(笑)。でも彦根市では1番で、滋賀県では3番です。結構な量を走っていたおかげで、高校に入ってからもすぐに動けました。あの期間があって本当に良かったと思います。陸上部で追い込んで練習して、それが終わってからサッカー部で一緒にボールを蹴っていましたからね(笑)。

――Jリーグの試合でも体勢が崩れた時に何とかするとか、身体の柔らかさといった特長は出せているように見えます。

 無理が利くところはそうですね。負けていないと思います。あとは技術をもう少し上げれば、またいろいろなプレーができると思います。

――でもドリブルで抜けない感覚はないのでは?

 そこはないですね。でも、やっぱり最後の(シュート)精度をまだまだ高めないといけないし、もっと早いテンポで打ってブロックされないようにするなどの工夫も必要だと思っています。

――そのギャップを埋められるというイメージはある?

 全然あります。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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