新垣渚、喜びも悔しさもかみしめて 「最後の甲子園ですべてが吹っ切れた」

週刊ベースボールONLINE

感覚のズレが歯車を狂わせることに

12年4月1日のオリックス戦で3年半ぶりの勝利を手にした。お立ち台では涙も 【写真:BBM】

 プレッシャーの多いプロ野球生活。それは1年目から始まった。1年目に8勝7敗で優勝に貢献すると、2年目には11勝8敗、177奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。一気にスターダムへとのし上がった新垣だったが、ある感覚のズレが歯車を狂わせることになる。

──プロ野球生活のスタートは華々しいものでした。

 ちょっとだけ活躍しましたね。奪三振王といっても、数は少なかった。その前の年に(松坂)大輔が215でタイトル獲得でしたから。

──当初はスピードにもこだわっていました。三振も狙いにいっていたのでしょうか?

 昔は球に当てられるのが、ものすごいストレスだったんです。打ちにいってのファウルだったら大丈夫なんですけど、バチーンと打たれると結果が内野ゴロでも、ものすごくストレスを感じました。だから変化球も、バットに当てさせたくない、と大きく曲げていたんですよね。

──そのスピードや三振へのこだわりというのは、いつ頃から薄れていったのでしょうか?

 肩を痛めてからかな。2007年あたりから体がダメになってきて、ちょっとずつおかしくなってバランスが崩れて……。オフにヒジを手術しました。だから10年あたりにはもう、球速を出そうとも思わなかったかもしれない。

──思い切り投げると痛みが出た。

 痛いし、怖い。多分12年も手探り状態でシーズンに入ったんですよね。復帰したけど恐る恐るだったから、最後はバテちゃったんです。

──でもこの年の最初の勝利を挙げた試合(12年4月1日、対オリックス/ヤフードーム)のお立ち台では涙を流されましたね。

 違うんですよ。インタビューが長くて長くて。「これは絶対オレを泣かそうとしている」と(笑)。泣き虫はもう卒業すると決めていたので、「絶対泣かない!」と思っていたんですけど、最後に家族のことを聞かれて。「家族」と言われると自分が苦しんできたことも全部思い出しちゃうから、泣いてしまったんですよ。その一言で、撃沈でした(笑)。

──復帰戦で120球の1失点完投は見事でした。

 うれしかったですし、「良かったー」って。うれしいという思いのほうが強かったですね。12年は投げられる喜びをすごく感じました。

──その時期は斉藤和巳さんともリハビリをともにしたそうですね。

 和巳さんの行動、頑張っている姿がものすごく支えになりました。ストイックだし、つらいリハビリなのに、そういったところを周りに見せない。練習でも常に全力。和巳さんの気合と根性はものすごかったです。だからこれほどの結果を残せていたんだと感じましたし、そういう姿を見ていたからこそ、僕もリハビリを乗り越えられましたね。リハビリって本当にしんどいんで。

──暴投が増えたのが07年ころです。これはヒジのケガによる影響が大きかったのですか。

 もともとスライダーは感覚でしか投げてなかったのに、疲労の蓄積とかもあって、その感覚がなくなってしまったんです。だからすごく苦しみました。感覚を信じて投げれば思ったところにボールが行ったのに、少しずつ違和感が出てきて、感覚が思いっきり狂い出して……。

──07年の途中から?

 いや、どうなんでしょう。すごく覚えているのが岩手でマー君(田中将大、当時東北楽天)と投げ合ったときに(7月3日)、いつも通りの感覚でスライダーを投げたら、思いっ切り逸れてバックネットに当てた。そこで「あれ?」と。ここから「肩か何かが悪いのかな?」と思いだして。そのときは軽かったと思うんですけど、痛いから変にかばってしまって、結果的に07年は7勝10敗25暴投。感覚でしか投げてなかったから、もう修正もできなくなってしまった。

──この年にはスライダーを生かすために、シュートを練習し始めました。その影響もあったのでしょうか?

 それもあると思います。シュートはこっち(人さし指でボールを切るように手首を三塁側にひねるようにして腕を振る)、でしょ。僕はもともとこっち(同様に手首を一塁側にひねり腕を振る)だから、シュートを練習したことによって感覚が一気に崩れてしまったんです。

──暴投が増えた要因を自分の中で理解し、それを改善するためにフォーム修正に取り組んでいた。

 基本的にピッチング自体が感覚だから、一度狂うと修正がなかなかできなかったんですよね。まだ若いこともあり、理解するまでにものすごい時間がかかりましたし。でもケガ明けからツーシームが投げられるようになって、スライダーもあまり投げなくなっていき、打たせて取るというスタイルに変わっていきましたね。だからこの復帰戦あたりから、三振も少なくなっていますよね。

交換トレードでヤクルトへ

──復活を果たしたものの、以前のような結果を残すことができず、徐々に出場機会が減っていきます。そして14年途中には山中浩史投手とともに、川島慶三選手、日高亮投手との交換トレードでヤクルトに移籍することになりました。

 もちろん寂しい思いはありましたけど、とりあえず投げるチャンスは欲しかった。出場機会を求め、中継ぎへ回ることを考えたこともあったので、僕にとってはチャンスだなと。

──ダイエー、ソフトバンクというチームが好きで入団しましたから、出るときの寂しさや悔しさは大きかったんじゃないでしょうか?

 それはありますよ。でもやっぱりチャンスがなかったですしね。

──そこはプロとして勝負できる場所があれば、と。

 そうですね。若いときだったらものすごいストレスを感じたと思います。でも一回ケガしてからのスタートだったので。そこからはもう、ソフトバンクに残って絶対やりたいという気持ちはなくなっていましたね。若い選手もいっぱい出てきたし。だからチャンスがあるなら、やっぱりそこはつかまないといけないなと。

──ヤクルトでは3年間で24試合に登板しました。

 今は移籍して良かったって言えますね。14年はあまり成績は出せなかったんですけど、次の年はチャンスをいっぱいもらって(15試合登板)、野球をしている自分がいて。自分としても生きがいを感じました。その年に優勝もしましたから、久々にそういうのも味わえたというのはいい経験にもなりました。チームもものすごくみんないいんですよ。監督、コーチ、スタッフにしても。「これがファミリー球団と言われるゆえんなのかな」と思うくらい。野球以外でも居心地のいい球団だなと思いました。

──今年は1000奪三振と100暴投という記録も……。

 誰が100暴投やねん(笑)。

──すみません(笑)。ただ、奪三振は素晴らしい記録です。

 いやあ、全然。5年くらい前に達成してないといけないですよ、普通の選手なら。でも花束をもらえたときは、ものすごくうれしかった。ケガとかを乗り越えて1000までたどり着けたのも、なんとか体が頑張ってくれたおかげだと思う。100暴投は……、いいんじゃないですか。歴史に名を刻めて(苦笑)。

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