企業クラブから地域に根ざしたJクラブへ J2・J3漫遊記 ブラウブリッツ秋田 後編
06年の地域決勝で旋風を巻き起こしたTDK
14年からJ3で活動するブラウブリッツ秋田。その前身はJSL2部でも活動したTDKサッカー部だ 【宇都宮徹壱】
最初のチャレンジは創部20年目の85年。前年の地域決勝(全国地域リーグ決勝大会)で3位となり、JSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格した。2部とはいえ(そしてわずか2シーズンで降格したとはいえ)、東北の企業チームがJSLに参戦したのはTDKが初めて(そして唯一)であった。
87年に降格となったTDKは、その後はしばし雌伏の時代が続くが、それでも東北リーグの強豪であり続けた。2002年からは5年連続で地域決勝に出場している。
TDKの2度目のチャレンジとなったのは、22年ぶりに決勝ラウンド進出を果たした06年大会である。ここで1.5枠の昇格を争ったのは、V・ファーレン長崎、ファジアーノ岡山、そしてFC岐阜。下馬評での優勝候補は、多くの元Jリーガーを補強した長崎と岐阜が昇格候補であり、TDKの評価は著しく低かった。
ところが蓋を開けてみると、TDKが下馬評を覆す旋風を巻き起こす。初戦の岐阜戦に1−0で競り勝ち、続く長崎戦と岡山戦はいずれも引き分けの末にPK戦で勝利。終わってみれば決勝ラウンドを無敗で優勝し、見事にJFL昇格を果たした。現在、株式会社ブラウブリッツ秋田の代表取締役社長を務める岩瀬浩介は、この大会にTDKの選手として出場。JFL昇格を誰よりも喜んでいた理由について、このように語っている。
「実はこの年、僕は(当時JFLだった)佐川急便東京から移籍して秋田に来ていたんです。佐川ではもちろん社員でしたが、秋田わか杉国体(07年)の強化指定選手になって、サッカー中心の生活を送りながら地域決勝に臨みました。確かにしんどい大会でしたが、JFLに昇格すれば佐川東京と同じ舞台に立って恩返しができる。ですから優勝したときは、本当に喜びしかなかったですね」
しかし、この時の昇格がTDKのみならず、岩瀬本人のその後の人生を大きく変えていくことを、当の本人はまだ知るよしもなかった。
TDKが市民クラブ化した、やむにやまれぬ事情
06年の地域決勝で見事優勝を果たしたTDK。左端にはのちに秋田の社長となる岩瀬浩介氏の姿が 【宇都宮徹壱】
秋田県サッカー協会副会長、佐藤一朗(かずあき)は10年前、TDKサッカー部の部長として地域決勝に帯同していた。自分が試算した来季の予算を本社に伝えた佐藤は、とても昇格の余韻に浸る気分にはなれなかったという。JSL2部の時とは、会社の経営状態も予算の額もまるで異なる。あるいは昇格辞退、という可能性も否定できない中、会社側はサッカー部のJFL参戦を認めてくれた。かくして、07年より晴れて全国を舞台に戦うこととなったTDK。しかし1年後の08年、クラブの存続を揺るがす事態が発生する。再び、佐藤。
「リーマンショックですよ。あれの影響で会社の経営もスポーツも、非常に厳しくなってしまいました。野球部に関しては、秋田と長野に2チームあったものを統合したのですが、問題はサッカー部。とりあえずは09年いっぱいは続けることは決まりましたが、それ以上は運営費用を捻出するのは無理と判断されました」
熟慮の末、会社側は「チームを存続させるには、いち企業チームから市民クラブ化に移行するしかない」という結論に達する。TDKがブラウブリッツ秋田となったのには、そうしたやむにやまれぬ事情があった。クラブ化にあたり、主導的な役割を果たしたのは県協会。だが現代表の岩瀬によれば「そのころ『サポーターズクラブ』という任意団体があって、将来的なJクラブ化を想定していた動きを見せていたことも大きかった」とも言われている。なお、企業クラブから市民クラブへの転身にあたり、その先達である横河武蔵野FC(現東京武蔵野シティFC)へのリサーチも行われたそうだ。
かくして09年のシーズンが終わった12月、TDKサッカー部は「ブラウブリッツ秋田」となり、市民クラブとしての新たなスタートを切ることとなった。そして初代代表には、秋田商業高の校長だった外山純が就任。秋商を県内きっての強豪に育て上げた外山は、確かに秋田のサッカー界の顔と言える存在であった。ただし、ビジネスの経験がまったくない教育者の起用については、「誰もなり手がいなかった」というのが実際のところだったようだ。