サッカースクールの教育的な意味 スペイン暮らし、日本人指導者の独り言(9)
サッカースクールは「去る者は追わず」
スペインの子は列を作るのが苦手。PK練習で並ばせると、必ず誰かが横入りして大騒ぎになる。ただ、それも蹴りたい気持ちの表れだと考えると許せる 【木村浩嗣】
欠席者は、リーグが終わり酷暑に襲われた6月以外は30人の生徒のうち多くて4、5人。「しょせんはお稽古事だ」と考えると、この数字は立派なものだろう。「誕生会と重なるから」と大量欠席者が出て試合が不成立になりそうな時(最低11人いないと成立せず、負けと見なされる)には慌てたが、それ以外に「家庭の事情」で休まれることで、練習や試合に支障が出ることはなかった。
サッカースクールは基本的には「去る者は追わず」である。義務教育でないのだから練習をサボっても、事情説明も欠席届も要らない。本人が不利益を被るだけである。
うちのチームは「練習に来ないと試合に出さない。試合に来ないと試合に出さない」という単純なシステムなので、金曜の午後から家族旅行に行くという親を説得して出発を遅らせ、週末の試合にやって来る子もいた。学校は好きで行っているのではないだろうが、サッカースクールは好きで来ている。だからこそ“サボっちゃえよ”という親を子が説き伏せる、という逆転現象も起こるのだ。
ルーズな親というのはいるもので、遅刻も頻繁にあった。うちのチームはホームでは試合開始45分前、アウェーでは60分前に現地集合というのがルールだが、15分くらいは平気で遅れて来る。ただ、これは送り迎えする親の責任なので、子供たちに罰は科さなかった。遅刻されても大丈夫なように招集時間にサバを読んでおけば対処できる。
監督は教師よりも恵まれている
だが、学習の価値が疑われている教育現場ではそうでない。友人によると「われわれの税金で雇ってやっているのだから……」と、お客さんのような態度で接してくる親が増えているのだ、という。親や子がお客さんで教師がサービスする側というのであれば、上下関係は完全に逆転している。教師への尊敬や畏怖なんて構造的にあり得ないのだ。
サッカーの世界には学力調査に匹敵するものはないが、あえて言えばFIFA(国際サッカー連盟)の国別ランキング男子でスペインは8位、日本は57位(7月14日付)とサッカー界では優等生であり続けている。女子はスペインが14位で日本が7位(6月24日付。なぜ女子サッカーが振るわないか、は「マチスモ=男性優位主義」と関係する重要なテーマなのでいつか書きたい)。
学校教育が行き詰っているように見えるからこそ、サッカースクールの教育的な意味が高まっている。やる気満々でやって来て、試合(子供にとっては「試験」だろう)に出られないと悔し涙を流す、そんな環境にいることは教える者として幸せなことだ、と本物の教師と話をすると思い知らされるのだ。