AJC杯、雪分からなくてボワラクテ 「競馬巴投げ!第114回」1万円馬券勝負

乗峯栄一

「お願いです、できるだけ早く病院へ行って下さい」

[写真3]一昨年の安田記念以来となるショウナンマイティ、乗り込みは入念だ 【写真:乗峯栄一】

 じゃあ「雪」と「競馬・泌尿器科」にはどういう関係があるのか、そこも説明しないといけない。

 その年の初冬、ぼくらは動き出したばかりの山手線に乗り、新宿で乗り換えて四谷まで行った。改札を出ると早朝の寒気が顔を差す。霜ですべりそうな石段を踏んで外堀沿いの土手に上がる。左手に上智大学の教会があり、右手にはずっと低くなった外堀跡にラグビーグラウンドがあって、その向こうには立体交差している地下鉄とJRの線路が見える。土手の向こうには迎賓館の壁が朝もやの中に白く浮き上がっている。寝不足の目が痛い。霜の降りた木のベンチをジャンパーの袖で拭いて二人で腰掛ける。

「オペックホースって、勝てないみたいね」

 前年のダービーのとき、二人で一緒に新宿場外に行って馬券を買った。当たらなかったが、そのとき優勝したオペックホースのことは何となく気になっていた。

「うん、ダービーからあとは全然勝ってないみたいやなあ」

 彼女はラグビーグラウンドの方を見たまま、黙ってうなずく。彼女とは2年前、芝浦倉庫のバイト先で知り合った。

「わたし、卒業したらやっぱり田舎に帰らなきゃいけないみたい。父が病気で」

 グラウンドの方を向いて話す彼女の息が白い。彼女は両手をコートの袖の中に入れて膝の上に置き、前屈みになってラクビーゴールのあたりを見ている。あと三カ月もすれば彼女は卒業する。ぼくは既に留年が決まっていた。

 彼女は12月の中旬になると田舎に帰ったが、すぐに一通の速達が届いた。

「何て書いたらいいか分かりません。でも急を要するので思い切って書きます。今日こちらの婦人科病院へ行きました。トリコモナスという病気だそうです。セックスによってうつるそうです。ごめんなさい、別の人と一度だけセックスしました。それから少し変だったのですが、病院へ行く勇気のないままあなたとセックスしました。あなたにうつしているかもしれません。お願いです、できるだけ早く病院へ行って下さい。許されないことだと思います。もしかしたら一番大切な人に病気をうつしているかもしれません。もう逢えないのだと思っています。そう思うと寂しいです。ごめんなさい。とにかく早く病院へ行ってください」

 読み終えた手紙を持ったまま、窓の一番上から隣のアパートとの隙間を眺めていた。

 卑怯じゃないか。さっぱり分からんじゃないか。こんな手紙一本で何かが終わったり始まったり、そんなことがあっていいのか。

「虫、虫って、偉そうに、お前は虫博士か」

[写真4]明けて7歳のクランモンタナ(前列手前)だが、衰えは感じない 【写真:乗峯栄一】

 夜になって十和田に電話した。

「手紙貰った」

「はい」

「どういうこと?」

「……はい」

「どういうことだ?」と言いながら少し興奮する。

「……はい」

「はいじゃ分からん。はっきり説明しろ」

「……ごめんなさい、病院行って」

「病院行けってどういうことだ」一気に堰を切って言葉が出てきた。「病院行けってどういうことだ、よその男とセックスして、病気うつしてごめんなさい、はいさようならって、そんなこと許されるのか? 性病なんかうつしやがって」

「ごめんなさい、……でも性病じゃないの」

「何?」

「性病じゃないの、トリコモナスといって原生虫の一種らしいの、性病じゃないの、ちっちゃな虫なの」

「虫、虫って、偉そうに、お前は虫博士か、虫だったら威張れるんか、虫なら上品か、昆虫採集できるんか、誰なんだ虫男は、芝浦倉庫のあの主任か? あいつか、虫男は」

「……ごめんなさい」

「あいつか、やっぱりそうか、前から虫くさいと思ってたんだ、あいつ」

「……やめて」

「うん? 弁護するのか、虫男を弁護するのか? セックスうまかったか? ビンビン感じさせて貰ったか? 虫の匂いでむせかえるように感じてしまったか? 虫にこんなに快感があるとは思いもよりませんでした、か」

 彼女の答えが聞こえない。意味不明のことを喚いている間、ぼくの耳には十和田の雪の音だけ聞こえていた。

 次の日、風の強い朝、高田馬場まで電車で出る。大学の近くに「秘尿器科・休日診療」の看板があったのを思い出して、やってきた。待合室で数人の男と一緒になる。ぼくは前屈みになり「お前ら性病じゃないのか」と様子を伺う。

「言っとくけどオレは違うからな、オレのはただの虫だ、それもまだうつってるかどうか分からん、いや、多分うつってない、シッコのときに痛いような気がするのは多分気のせいだ」

「検査結果は三日後」と言われて病院を出て、コスモ会館でパチンコをして外に出ると、東京にもチラチラ雪が舞った。駅前ビルの電器量販店に入って有馬記念を見た。オペックホースは人気を背負いながらまた惨敗し、ぼくは前日買っていた馬券をポケットの中で握りつぶす。それからふらふらと歩きながら就職のことや彼女のことを考えた。

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著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

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