“ミスター社会人”西郷泰之の“結” いつか恩返しを―波乱万丈の現役25年に幕

楊順行

生死にかかわる事故で「野球が好き」

三菱ふそう川崎時代には活動停止明けの2005年に劇的な都市対抗優勝を果たしたが、その2年後に休部となった 【写真は共同】

“承”は、そんな99年だ。日本代表の合宿中。バント練習中だった打撃マシンの速球が、ちょうどダグアウトから飛び出した西郷の右側頭部を直撃する。5メートルほどの至近距離だから、たまらない。ちょっとでも当たり場所がずれていたら生死にかかわる、頭蓋骨骨折と脳挫傷のアクシデントだ。入院が1カ月。グラウンドからは、3カ月離れた。

「するとね……あれ? 野球がしてえな、と気づいたんですよ。辞めてもいいはずが、いざプレーできなくなると、無性に”やりたい”。プロになる、ならないじゃなくて、野球が好きだからやっているんだと思い出したんです。あの時期があったから、野球に対して執念深くなった。一方で、プロで成功している選手に対しては、並大抵ではない努力をしているんだろうと、敬意を持って見るようになりましたね」

 その年10月から復帰した西郷は、白球の感触を心から楽しむようになっていた。すると翌00年、垣野多鶴監督を迎えた三菱自動車川崎は、都市対抗で初優勝。大阪ガスとの決勝で3ランを放った西郷は、MVPにあたる橋戸賞を獲得している。

残留した長野と主軸で都市対抗V

Hondaに移籍した1年目の2009年、長野とともに主軸を打って都市対抗優勝に貢献した 【写真は共同】

 そして、“転”。03年、活動停止明けの05年を自チームで、さらに02年、07年と補強選手で都市対抗Vを積み重ねた西郷は09年、Hondaに転籍する。三菱ふそう川崎の、08年限りの休部を受けてのことだ。当時、経営の合理化のためにそうする企業は少なくなかった。西郷が回想する。

「正式に休部という話を聞いたのは08年の1月。当時で35歳でしたから、”おそらく、最後の年になる”と考えました。ただ一方では、”できることなら、続けられる限り野球がしたい”という気持ちもあった」

 三菱ふそう川崎は、チーム最後のその08年、神かがり的な力を発揮して都市対抗に出場。本大会では初戦で敗退したが、その後Hondaの安藤強監督(当時)から、「ウチのユニホームを着て本塁打記録を塗り替えてみろ」と誘いを受けた西郷は、現役続行を決めた。なにしろ、「野球に対して執念深い」のだ。この年、千葉ロッテからドラフト指名を受けた長野久義が、入団を拒否してHondaに残ったのは、「都市対抗で優勝したいというのもあるけど、西郷さんと一緒にプレーするのが楽しみだった」のも一因だ。

 そして、09年の都市対抗。長野が3番、西郷が4番を打ったHondaは、13年ぶりの優勝を飾ることになる。西郷にとって、6度目の優勝だった。

「社会人にいつか恩返しをしたい」

「バットを2回ボールに当てる感覚」と木製でホームランを打つコツを教えてくれた西郷。「いつかは社会人に恩を返したい」と今後の夢を語ってくれた 【スポーツナビ】

「25年間社会人でやってきて、困ったところでは決まってだれかが手をさしのべてくれた。そういう出会いが、一番印象的ですね。4年目に補強されたこと、95年の代表入り、Hondaへの転籍……。自分が得たものを、いつかお返しする機会があればと思いますが、いまは会社員として社業が第一です」
 
 さらに「アマチュアなんですから引退はない、社会人野球は終わったとしても、野球はどこでもできます」と続けた。となると……起、承、転、ときての“結”は、まだまだ先なのかもしれない。

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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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