鈴木啓太が浦和で現役引退を決めた心境 サポーターと築いた唯一無二のプロ人生
失意と葛藤を繰り返してきた鈴木
15年シーズンでの引退を決意した鈴木だが、過去にも何度か引退を考えていた時期があった 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
また、10年は今季に次いで、鈴木が所属チームの浦和レッズで出場機会を与えられなかったシーズンだった。同期の阿部勇樹が中核を成し、歳下の細貝萌(ブルサスポル/トルコ)が台頭したことで控えに回ることが多くなった彼は、本気で現役から退くことを考えていた。彼にとって浦和のボランチは聖域であり、その任を得られないのであればここに居る意味がないと思った。
自らは招集されなかった岡田武史監督率いる日本代表が南アフリカの地でワールドカップを戦っている時に、浦和と彼はオーストリアの片田舎で強化キャンプを行っていた。憤りとふがいなさを痛感する日々の中で、寸前で事切れる心境の彼を救ったのは、かけがえのない恩師の言葉だった。浦和がキャンプを張っていた場所から程近い、オーストリアの小都市グラーツにオシム氏が滞在していた。それを聞きつけた鈴木はキャンプ中、唯一のオフ日にひとり恩師を訪ねて旧交を温めた。その時にオシム氏から受けた叱咤(しった)激励の言葉は、彼を再び立ち上がらせる原動力となった。オシム氏は開口一番、彼にこう言ったのだ。
「なんでお前はここにいるんだ? 南アフリカで戦っているんじゃないのか?」
技術、体力に秀でず、一介の選手にすぎなかった鈴木がここまで実績を築き上げてこれたのは、ひとえに本人の努力の賜物(たまもの)と言うしかない。彼は心に熱い魂を宿す野心家で、プロサッカー選手としての自らの価値を高め、強い意思で底辺から這い上がってきた。チーム内で黒子役を務め、チームメートを引き立てることこそが課せられた役割だと認識し、その特異なスキルで立場を確立した。
もちろんその過程では困難にも直面している。見栄えがなく、一見すれば誰もが果たせそうな職務を内外に評価させるのは難しい。20代の彼は良い意味で我が強く、一切意思を曲げなかったが、そうしなければ簡単に備え持つ信念が崩れる不安に苛まれていた。日本代表選手だったある時、彼は自らを批判するサッカーメディアに対して、こう言い放ったことがある。
「言いたいことがあるなら言えばいい。でも、その論旨は間違っている。それを俺が証明する。選手もメディアもその世界のプロならば、それ相応の覚悟で臨んでほしい。俺は常に学んでいるし、鍛錬もしている。だったらメディアも勉強して、俺を納得させるだけの意見を言ってほしい。そうじゃなければ、対等の存在にはなれない」
アイデンティティーの誇示から黒子役に
11年シーズンにキャプテンを務めた鈴木は、苦境の中でJ1残留を果たした安堵から涙を流した 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
11シーズンの浦和はゼリコ・ペトロビッチ監督がシーズン中に解任される苦境の中で、後任の堀孝史監督がチームを立て直してJ1残留を確定させた。キャプテンを務めた鈴木は事実上の残留が決まったJリーグ第33節・アビスパ福岡戦(2−1)後に責任を果たした安堵(あんど)から涙を流した。この頃から彼の心境には変化が生まれている。自我を確立し、その存在を知らしめることではなく、チームのために邁進する姿勢を醸し出すようになった。チームメートと積極的にコミュニケーションを図り、分け隔てなく接するようになったのもこの頃だった。そして12シーズン、鈴木の前に重要な人物が現れる。
サンフレッチェ広島を率いていたミハイロ・ペトロヴィッチ監督が浦和の指揮官に就任した。アグレッシブなコンビネーションサッカーを標榜する監督は、選手に特異で斬新な役割を課す。その中で鈴木に与えられたタスクは、チームをオーガナイズする文字通りの司令塔的役割だった。
これまでの鈴木は華やかで決定的な仕事を果たす者をサポートする任を請け負ってきた。しかしペトロヴィッチ監督は彼に主体的で能動的なアクションを求めた。機敏なパスワーク、相手ゴール前への飛び出し、何よりギャンブル性の高い乾坤一擲(けんこんいってき)のサイドチェンジパスやスルーパスをも許容する指揮官の戦術に、ある日の光景が映しだされた。
鈴木は静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身である。近所の子どものほとんどがサッカーボールを蹴る環境の中で、彼は名門清水FCに加入して全日本少年サッカー大会準優勝を果たし、東海大学第一中(現・東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部)では全国制覇をも成し遂げたエリートの一員だった。当時の鈴木は他の子と同様に、ただサッカーが好きで、無我夢中でボールを追いかける純真な少年だった。彼の原点は、あの清水のグラウンドに置いてある。しかし三十路を越えた今、何故かあの時の風、匂い、温度が蘇ってくる。ペトロヴィッチ監督の下で戦う青年は、その根源的な思いを取り戻し、新たなる再生を果たしたのだった。
このチームでの生きがいを見いだした彼に不穏な予兆はなかったはずだった。