NBLとbjリーグ、最後の役目 すべては日本バスケ強化のために――
大きな転機となった川淵会長の就任
河内コミッショナーは「世界で戦える日本人選手を、一人でも二人でも多く育てたい」と自身のポリシーを語った 【スポーツナビ】
堀井がNBLの代表として関わるのは昨季からだが(編注:NBL発足時は役員)、河内はbjリーグの創設メンバー。99年からは日本初のプロ球団である新潟アルビレックスBBの立ち上げに奔走し、05年に新リーグも立ち上げたまさに張本人だ。手塩にかけたリーグの消滅には“寂しさ”もあるだろう。また今回の取材では2部3部に移ったクラブの経営など、懸念や危惧も口にしていた。
ただ、自らが14年夏から短期間ながらにJBAの理事を務めた経験から、河内はこうも述べる。
「いろいろな立場の方がいて、大きな組織の手続きがいろいろある中で問題を解決していくのは相当に大変だなということを身に染みて感じました。しかし、FIBA(国際バスケットボール連盟)からの制裁が決定し、国際試合に出場できない事態となったことで制裁解除へ向けてFIBAからの条件もあって、今までの理事、関わっていた人を一切入れないということでスタートしました。五輪予選に出るためにも、制裁解除を目指すためにも、バスケットボール業界が一致団結することになれたのは、そういう緊急事態であればこそ上手くいったのかなと思う」(河内)
川淵会長の就任、Bリーグの発足に伴って、大きく動き始めているのがアリーナ問題だ。bjリーグが10年以上に渡って苦しみもがいてきた難題が、この半年で劇的に動いた。これについて河内はこう分析する。
「われわれは体育館で土足厳禁や飲食禁止とされているころから一つ一つ説得していった。チームと行政はうまくやっていかなくてはいけないので、リーグが強引に進めてしまうのは難しい状況でした。しかし、今回はメディアにも大きく取り上げられ、FIBAや国と文科省等々のバックアップがある状況です。それを川淵さんがうまくリードしてここまで持ってきたのは非常に良いこと。われわれだけではできなかったことを実現させたことが、今回のことで一番大きなことだと思っている」(河内)
すべては日本代表の強化のために――
日本バスケを強くするという思いはNBLもbjリーグも同じなのだ 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
「僕が96年に日本代表の監督を辞めて、その後に小浜(元孝)さんが(1998年の)世界選手権に行った。それからそういう大きな大会に男子の日本代表は(06年に開催された自国開催/予選免除の世界選手権を除くと)1回も行けていないわけですよね。今までのやり方で五輪とかに行けたなら、そのやり方は正しいと思う。でも行けていない。まず何をしなければいけないかと言ったら、チーム数を増やして、地方で埋もれている良い選手が出てくる可能性を高めること。そういう新しいことにチャレンジしないといけない。
(日本代表の)HCたちのレポートを見ると、(外国人選手の)あの強さ、あの手足の長さでパスが通らなかった、という内容。これが20年間続いているんです。だったらbjリーグは常に練習から外国人と日本人で戦うんだということ。僕は常に世界で戦える選手を、一人でも二人でも育てたい。そのためには外国人に揉まれる環境を作るのが最初だろうと思ってきた。初めはコート上全員が外国人で、外国人リーグだとか言われましたよ。でも全日本は外国人と戦うでしょう? と。自分は常々そういうポリシーでやっている。徐々に外国人とのマッチアップに慣れてきて、今では立ち向かっていくようになった。たくましい選手が出てきて、オンザコートも3にしたり(編注:今季は2)状況に応じて変化させてきた」(河内)
bjリーグで実践してきたことが少しずつ全日本にも現れてきたのかもしれない。今回のアジア予選を見ていて「技術が上がったとは決して思わない。ただ、外国人選手を恐れない選手が増え、チーム全体が一つになったというのは、画面を通してすごく感じた」(河内)と日本代表の進化を彼は喜んでいる。アジアの4強入りは18年ぶり、五輪予選では河内が指揮を執ったアトランタ五輪予選以来20年ぶりのことだった。
もちろん日本バスケを強くするという思いはNBLも同じだ。現状を見ればナショナルチームの選手は大半がNBLの所属。堀井も「今までよりももっとレベルを上げて、ゲームの質はbjリーグを圧倒しないといけないと思っている。切磋琢磨(たくま)して更にゲームの質が上がるとともに、日本代表が必ず強くなる。そういったことを期待している。試合に関するエンターテインメント性とは、究極は良いプレーをやることだと思っている」と口にする。
来季からは“仲間”となる両リーグだが、健全な対抗意識は今季を盛り上げる一つのポイントとなるだろう。
この1年間、日本のバスケットボール界はFIBAと国の後押しを受け、川淵新会長(タスクフォースチェアマン)に引っ張られたことで、急激な変革に成功した。振り返ればまさに“走りながら考える”日々だった。『日本バスケ戦略会議』からの発信はこれが最後になる。しかしそれも明快なビジョンが提示され、日本バスケの将来が開けたという現状を受けたものである。