楽天・梨田新監督が貫いてきた信念 「己の観察眼」を生かし日本一へ

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捕手の目で決断した礒部、高橋の転向

日本ハム監督時代には09年に優勝、4年で3度のCS進出を果たした 【写真:BBM】

 オーソドックスな采配。奇をてらった策は見当たらない。しかし、指揮を執る中で必ず生かされる信念がある。それは「己の観察眼」だった。

「ずっとキャッチャーをやってきたでしょ。だから“見る”んだよ。何度も見る。興味というのかな、そこが肝心」 

 グラウンドに立つと周りを見る。選手の動きを見る。雰囲気を見て感じ取る。さらに相手のベンチから発せられる圧に至るまで、見抜く。生み出された日本ハムの4年間の采配を一言で表現するならば「安定感」という言葉がぴったりではないだろうか。

 近鉄時代、礒部公一をまずは専門職だった捕手として鍛え抜きながらも、一方で秀でた打撃を評価しており、最終的には本格的に外野手として起用し、持ち前の打撃を開花させた。磯部は01年の優勝時に欠かせない中軸打者として君臨し、その後の活躍につなげた。梨田の思いとしては自らが現役時代に身につけた背番号8も背負わせ、捕手として受け継いでほしかったのかもしれないが、指導する中で最終的な判断はやはり「己の眼」であった。

 似たことが日本ハムを率いた2年目、09年に起こった。球団歴代捕手で最高記録となる26本塁打(04年)を放つなど、強打の捕手として鳴らした高橋信二がいた。だが、05年に左膝のじん帯を断裂する大ケガを負ってから精彩を欠き、安定したプレーが続かなかった高橋を09年、一塁手に固定。そして打順を4番に据えた。従来のイメージの4番ではなく、進塁打や時には犠打さえもいとわない「つなぎの4番」として高橋は活路を見い出した。8本塁打は決して多くはなかったが、キャリア初の3割を超え、75打点を稼いで、リーグ制覇に貢献。クライマックスシリーズと日本シリーズというポストシーズンでは3本塁打を放つ大活躍を見せた。

解説の傍らでも欠かさないデータ収集

 磯部も高橋も勝つための貴重な戦力として自立させた。そこには梨田の『切なる思い』というスパイスが加わっていたに違いない。適材適所を見抜き、また自らも扇の要を務め上げた経験があるだけに、その場所をある意味、選手から奪ったことに大きな責任を十二分に感じながら使い続けた。それこそが「監督・梨田昌孝」を支える根底にある『思い』ではないだろうか。負ける味をかみ締め続けてきた男が、ならば勝つために勇気を持って振ったタクトに他ならない。

 しかし、いまだ日本一にはたどり着けていない。たとえば解説者として物腰柔らかく説明しながらも、カメラに写らない所ではストップウオッチを手放さない。投手のクイック、打者の走力など、笑顔を浮かべているかたわらで、緻密な観察眼とデータ収集が垣間見れる。梨田は根っからの野球人であり、監督の器を持つ人間なのだ。“猛牛”として育ち、北の大地でじっくりと野球を育み、そして今、最後発のチームを率いる。

 新たな牙城を東北に置き、熟成の時を刻もうとしている。これまでは既存の形があった球団を束ねてきたが、良い意味で初めて「梨田色」を全面に打ち出せるスポットに足を踏み出せるのではないだろうか。楽天側も長期政権を望んでいるはず。もちろん新監督に異論はない。

梨田昌孝氏プロフィール

1953年8月4日生まれ。島根県出身。浜田高校から72年ドラフト2位で近鉄に入団し、捕手として活躍。88年の引退後は93年より近鉄でコーチ、2軍監督を務めた。00年に監督に就任すると01年にリーグ優勝。04年の球団合併により辞任し、08年より北海道日本ハムの監督に。09年にリーグ優勝を達成。11年シーズン限りで退任。その後は野球評論家として精力的に活動をし、15年からは楽天の新監督になることが発表された。

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