歴史は京都二中OBの構想から始まった 夏の高校野球・第1回大会物語(前編)

楊順行

突然の廃校、そして復活

京都二中の流れをくむ鳥羽高が甲子園切符をつかんだ。開会式では100年前の復刻ユニホームで行進が行われる 【写真は共同】

 だが、48年。学制改革の余波で京都二中は、突然廃校となる。進駐軍京都支部による「義務教育の充実を考え施設のよい旧制中学を新制中学に転用する」という指示のためだ。当時在校していた大島渚(のち映画監督・故人)らが反対運動を行ったが抵抗は及ばず、約900人いた生徒は、新制高校に分散。京都二中は、新制・洛南中学に明け渡された。
 
 消滅も唐突なら、復活も思わぬ形だった。84年、洛南中となっていた京都二中の跡地に、鳥羽高校が開校するのである。京都府も、「二中の伝統を継承する学校」と認める復活だった。これを機に、長らく日本高野連が保管していた初代優勝旗のレプリカや、研究家の手元にあった『野球部記』も学校に戻っている。

 鳥羽となってからしばらくは苦しい時期が続いたが、転機となったのが97年、卯瀧逸夫監督の就任だ。卯瀧監督は、無名だった北嵯峨を10年間で5回の甲子園に導いた手腕の持ち主。鳥羽も確実に力を蓄え、2000年春からは3季連続で甲子園に出場を果たしている。なかでも、京都二中の創立100年だった00年春の出場は、主催する毎日新聞社から「53年ぶり出場」と、京都二中の継承校であるというお墨付きを得てベスト4の活躍を見せ、オールドファンを喜ばせた。

100周年に“KSMS”が甲子園に

 さらに鳥羽は、12年のセンバツにも出場した。このときのチームを率いたのが、06年に就任した山田知也・現監督だ。

「まあ、鈍感なのか、赴任当時は二中と言われてもあまりピンときませんでしたがね。ただ、校内に飾られている第1回優勝旗のレプリカなどを見ると、やはり伝統の重みは感じます。生徒にも、折にふれて話していますし」

 このときのセンバツでは、山田監督のアイデアで、ユニホームの左袖にKSMS(Kyoto Second Middle School)の文字を入れた。1915年の第1回大会優勝当時は胸に入っていたもので、「“死ぬまでにもっかい、甲子園を見たい”とおっしゃっていた二中OBの方も、喜んでくれたと思います」(山田監督)。

 この夏は、100周年イベントとして、復刻版のユニホームが甲子園を歩くことになっていた。

 京都大会前、山田監督はこう語っていた。

「できるなら京都で勝って、全員で甲子園を行進したいですね」

 そして鳥羽は、ノーシードから快進撃を続けた。27日の決勝では、立命館宇治に6対4で逃げ切り勝ち。15年ぶり6回目の夏の出場を決めた。皮肉なことに立命館宇治を率いるのは、復活・鳥羽の礎を築いた卯瀧監督だった。

「選手たちがさまざまに考え、練習してきたことを発揮してくれたのだと思います」と山田監督。もちろんユニホームの左袖には、KSMSの文字が入っている。鳥羽が復活出場したのは、ちょうど京都二中創立100年の00年センバツだった。そして、夏の大会創設100年。この節目の年に、高校野球が始まるきっかけとなり、第1回に優勝したチームが主役になるとしたら、これほど劇的なことはない。

駆け足で始まった第1回大会は、果たしてどのような大会になったのか? 後編は31日(金)に掲載予定

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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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