前に進む―復活・寺原隼人が下した決断=鷹詞〜たかことば〜

田尻耕太郎

工藤監督が気づいた変化

昨年、膝の手術を行い、現在でもケアを欠かせない寺原。ワインドアップでの投球も続け、迷いのない姿勢を見せている 【写真は共同】

 現在でも週に1度は膝に溜まった水を抜くなど、ケアを欠かすことはない。

「こればかりはうまく付き合っていくしかないです」

 ただ、慢性的な痛みからは随分解放され、自分の理想に近いフォームで投げられるようになった。その1つが振りかぶる「ワインドアップ」だ。昨年のオープン戦でもチャレンジしたが、膝痛もあってうまくバランスが取れずに、結局元通りの「ノーワインドアップ」でシーズンに臨んだという経緯がある。今年は春季キャンプ中から一貫して振りかぶって投げている。迷いのない証しだ。持ち味の球速にしても150キロ超は健在。先発でも140キロ台後半を常時マークしており全く問題ない。

「今の目標はシーズンの最後まで1軍のローテで投げることです」――その先には工藤公康監督を胴上げするというチーム全体としての誓いもある。

 実は横浜に移籍した07年に、同じタイミングで巨人から移ってきたのが、まだ現役の工藤投手だった。

「今は監督と選手という立場なので、それほど話をする時間は多くないですが、あのころはいろいろな話もしたし、アドバイスももらいました。今でも覚えているのは、(工藤)監督から貸してもらった道具です。逆L字の棒の先にボールが刺さっているんです。それを左手に持って、右手の指先でボールをくるくる回すんです。遊び感覚で、ボールをリリースする瞬間の“弾き”を確認する。暇さえあれば、それを借りてよくやっていたのを覚えています。監督の方は忘れているかもしれませんけどね(笑)」

 そこで工藤監督に尋ねてみると、「あー、覚えているよ。今でも家にあるから」とのこと。その話の流れで寺原についての質問もしてみた。すると工藤監督は――「顔つきが変わったね。謙虚な顔になった」――と言った。

「高い目標を持っている人間だから、そういう顔になれる。例えば1回くらい10勝したからといって、デカい顔してたらダメ。1年だけ2桁勝つのは誰でも可能。相手に研究されながらも勝ち続けるのが大変なんだよ」

 4勝無敗でも、「まだまだ」と口にした寺原。右腕は確かに、いい意味で謙虚だった。

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著者プロフィール

 1978年8月18日生まれ。熊本県出身。法政大学在学時に「スポーツ法政新聞」に所属しマスコミの世界を志す。2002年卒業と同時に、オフィシャル球団誌『月刊ホークス』の編集記者に。2004年8月独立。その後もホークスを中心に九州・福岡を拠点に活動し、『週刊ベースボール』(ベースボールマガジン社)『週刊現代』(講談社)『スポルティーバ』(集英社)などのメディア媒体に寄稿するほか、福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルメディアともライター契約している。2011年に川崎宗則選手のホークス時代の軌跡をつづった『チェ スト〜Kawasaki Style Best』を出版。また、毎年1月には多くのプロ野球選手、ソフトボールの上野由岐子投手、格闘家、ゴルファーらが参加する自主トレのサポートをライフワークで行っている。

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