ネイマールとチアゴ・シウバの明暗 W杯後に立場が激変した新旧キャプテン

沢田啓明

「リーダー失格」という厳しい批判

W杯ではキャプテンを務めていたチアゴ・シウバ(右)だが、精神面の弱さを露呈し、リーダー失格の烙印を押された 【写真:ロイター/アフロ】

 昨年のワールドカップ(W杯)後、セレソン(ブラジル代表の愛称)における立場が著しく変化した選手がいる。チアゴ・シウバ(パリ・サンジェルマン)とネイマール(バルセロナ)である。

 W杯前、チアゴ・シウバは世界最高のセンターバック(CB)の一人と評価され、チームの守備の柱で、しかもキャプテン。「チームで最も重要な選手」という位置づけだった。しかし、W杯の決勝トーナメント1回戦のチリ戦で決着がPK戦に持ち込まれた際、キッカーとなることを拒否。しかも、苦境に立たされた仲間を鼓舞すべき立場にありながら、集団から一人離れ、涙を流しながら神に祈るという不可解な行動を取った。

 さらに準々決勝のコロンビア戦で、試合終了直前に相手GKのキックの邪魔をするという全く不要なファウルを犯してイエローカードをもらい、累積警告で準決勝に出場できなくなった。ブラジル国内では、彼のこのような振る舞いがセレソンが準決勝でドイツに大敗(1−7)を喫した大きな要因のひとつと考えられ、「精神的な弱さを露呈した」「リーダー失格」などと厳しく批判された。

 一方、ネイマールはW杯前から攻撃の中心ではあったが、22歳(当時)と若く、チームでは末っ子的な存在だった。攻撃が彼の個人能力に頼る部分が大きいことから、チームの「ネイマール依存症」が指摘されていたが、実際には試合によって調子の波があり、W杯でも出場したすべての試合で決定的な役割を果たせたわけではなかった。

選手としてひとつ上のステージに

ネイマールはCL得点王に輝くなど、選手としてひとつ上のステージに到達した 【写真:なかしまだいすけ/アフロ】

 このような状況で、W杯後、セレソンの新監督に就任したドゥンガが最初に行ったのは、キャプテンマークをチアゴ・シウバから取り上げ、ネイマールに渡すことだった。また、新チーム結成後最初の強化試合でチアゴ・シウバが故障で欠場したため、クラブ(アトレティコ・マドリー)で絶好調だったミランダを代役に抜てき。彼が素晴らしいプレーを見せたことから、チアゴ・シウバは故障が癒えてセレソンに復帰してもベンチに座ることになった。つまり、主将の座を失い、しかもレギュラーですらない、という二段階降格処分を受けたのである。

 当時、チアゴ・シウバは「ネイマールが新主将となることについて、誰からも何の説明も受けなかった」と国内メディアに不満を漏らした。しかし、ドゥンガにこの発言を咎められ、以後、この件に関してはコメントを差し控えている。

 かつてペレが身につけたエースナンバー「10」を背負い、ペレですら手にしなかったキャプテンマークを与えられたネイマールは、その責任の重さに押しつぶされることはなかった。持ち前の陽気でやんちゃな性格でチーム全体に若々しく明るい雰囲気をもたらし、W杯での惨敗で自信を喪失していた選手たちに笑顔を取り戻させた。自らも中心選手としての自覚をさらに高め、すべての試合で攻撃をけん引するようになった。決して得意ではない守備でも、可能な限りの貢献をするようになった。

 チームが背番号10のキャプテンに頼るのは、至極当然だ。「ネイマール依存症」という声も聞かれなくなった。今季の欧州チャンピオンズリーグで優勝し、10得点をあげて大会得点王(リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドと同数)にも輝いた23歳は、選手としてさらにひとつ上のステージに到達している。

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著者プロフィール

1955年山口県生まれ。上智大学外国語学部仏語学科卒。3年間の会社勤めの後、サハラ砂漠の天然ガス・パイプライン敷設現場で仏語通訳に従事。その資金で1986年W杯メキシコ大会を現地観戦し、人生観が変わる。「日々、フットボールを呼吸し、咀嚼したい」と考え、同年末、ブラジル・サンパウロへ。フットボール・ジャーナリストとして日本の専門誌、新聞などへ寄稿。著書に「マラカナンの悲劇」(新潮社)、「情熱のブラジルサッカー」(平凡社新書)などがある。

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