W杯で得た喜び、クロアチア戦の悔恨 柳沢敦が語るキャリアと未来<前編>

元川悦子

仙台で得た特別な想い

仙台では移籍直後に東日本大震災を経験。「普通にサッカーができる幸せを改めて感じた」と話す 【Getty Images】

――その京都が在籍3年目の10年にJ2降格となり、柳沢選手自身も契約満了を迎え、次なるチャレンジの場に仙台を選びました。

 その時は誠さん(手倉森=現U−22日本代表監督)に拾ってもらいました。誠さんとは共通の知り合いがいて何度か面識がありました。代表戦の後に食事をさせてもらったり。そういう縁というか、巡り合わせというか、助けてくれる人がありがたいことに僕にはたくさんいた。そのおかげで現役を続行できたのはあります。

――J1定着への確固たる基盤がほしかった仙台にとっては、柳沢選手のような精神的支柱が必要だと監督は考えたんでしょうね。でも仙台へ行った途端に震災が起きた。選手たちもプレーどころではなくなり、避難所での手伝いに駆り出される日々を過ごしました。

 普通にこうやってサッカーができる幸せを改めて感じますし、多くの被災者の人たちがそこで負った傷というのは計り知れないものがある。プロサッカーに関わる以上、自分はそういう人たちに元気になってもらえるような仕事を常にしなければいけないと思うようになりましたね。

――仙台ではけがもあってスタメンでピッチに立てる機会が少なかったけれど、震災の経験も自分を強く支えていたのでは?

 ベンチにいながらチームを支えることと、震災は特別にリンクはしていなかったです。「立場立場でできることを100%でやる」ということは常に言われてきたし、それをやるのは当たり前。ただ、自分が多くの経験をしてきた中で、震災は非常に大きな出来事でしたし、あの時の気持ちを忘れないことはすごく大事だという思いは常にあります。

――選手時代を通して、クラブレベルで一番うれしかったことを1つだけ挙げるとすれば?

 さっきも言いましたけれど、プロになって(試合に)出始めて最初に優勝した98年正月の天皇杯です。事実上、僕の初タイトル。自分が原動力となった優勝。その充実感はいまだに残っている感じがします。

忘れられない代表での経験

ロシア戦では決勝点をアシスト。日本に歴史的なW杯初勝利をもたらした 【写真:ロイター/アフロ】

――柳沢選手には代表というもう1つの大きな柱がありました。97年ワールドユース(マレーシア)、00年シドニー五輪と年代別世界大会を経て、02年日韓、06年ドイツと2度のW杯に出場しましたね。

 やっぱり02年は大きな出来事。すごい経験だと思います。W杯といっても、ただのW杯じゃなくて自国開催ですからね。これから日本がW杯出場という歴史を積み重ねていくとしても、自国開催の大会に出場した日本人というのはそうそう出てこないと思うので。そういう意味では、本当に良い時期にW杯を経験できたと思います。

――ロシア戦のアシストは永遠に残ります。

 できれば点を取りたかったですけどね(笑)。

――「自分が点を取らなくても周りに取らせることが大事」だと口癖のように言っていた柳沢選手の1つの象徴的なシーンだったのでは?

 結果として勝利につながったり、勝ち点につながっていれば、そういう評価をしてもらえる場合もあるんですけれど、FWというのは難しいもの。チームが勝たなければそういうプレーは評価されないポジションですよね。

――柳沢選手は「FWは点を取るのが仕事じゃないか」とメディアに詰め寄られることも多かったですよね。自分の中では考えや信念が揺れ動いたこともあったのでは?

 グラウンドの中では揺れ動いてはいなかったですよ。ただ、「何て言えば、納得してもらえるのかな」というのは、よく考えました。だけど、結局は理解してもらえないのかなと……。自分の持論は、良い時は評価してもらえるんですけれど、そうじゃない時に納得させるのが難しかった(苦笑)。それでも僕の中では、常に変わらず自分の考えを持ってプレーしていました。

――柳沢選手はメディアから注目され続けてきた選手。周囲との戦いも大変だったのでは?

 自分自身がしっかりとした考えを持っていればそれを貫き通すべきだし、考えが変われば変わったでいい話。そこに強い意志があるかないかが非常に重要なのかなと。周囲によって考えを変えさせられていたら、強い気持ちをサッカーに持って臨めないし、不安や違和感を覚えながらやっても良い結果は出ない。自分が突き進むためにも、しっかりした確信が心の中にあることが重要なのかなと思います。

――ドイツW杯のクロアチア戦で加地(亮=現ファジアーノ岡山)が折り返したクロスを決められずに決定機を逃した件でも、「急にボールが来たから」というコメントが「QBK」とやゆされる事態になりました。柳沢選手自身も驚いたのでは?

 あのプレーに対しての一番の反省は、クロスに対してアウトサイドで足を出してしまったこと。あの時の監督はジーコでしたけれど、鹿島に入ってから常に言われてきたのが「インサイドで確実にやれ」ということだった。それを積み重ねてきたにも関わらず、ああいう大きな舞台で、しかもジーコが監督をしているところで、ああいうプレーをしてしまった。そのことは本当に悔しいというか、残念。積み重ねてきたものがあるだけに悔しさは表面上だけじゃない。なおさら辛いシーンではありますね。

――ドイツW杯は自分自身、チームも含めて悔しさしか残らないのでは?

 そうですね。チームの雰囲気がどうこうとは言われましたけれど、みんなが違う方向を向いてたわけでは決してなかったと思いますし、目標にしてるところも違ったとは思わない。ただ、悔しかったですね。

<後編に続く>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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