競技者であり続ける恩田美栄 フィギュアスケート育成の現場から(6)

松原孝臣

選手が切磋琢磨していた時代

恩田の選手時代、名古屋には互いに切磋琢磨する環境があった 【写真:アフロスポーツ】

 また、環境という点については、こうも語る。
「名古屋にもう1個リンクがあったらいいのに、と思うこともあります。もうちょっと分散できると練習するには楽なのにな、と」

 そのあとで恩田は「ただし」、と言った。
「環境がどうあれ、その中でどのように練習すればいいのか、育てていけばよいか、工夫していくのも大事だと思います」

 そこには、自身の体験がある。
「私が選手だった頃もリンクは混んでいたんですね。でも、たくさんの選手が育った。思い出すのは、(中野)友加里ちゃん、(安藤)美姫、それに(浅田)真央ちゃんがいたりしたわけですけど、誰かがジャンプを跳ぶと、変な話、いやでも跳ぼうとするというか足がひとりでに動き始めるんです。『私も跳ぼう』と連鎖反応が起こって、ジャンプがエンドレスになっていく。熱意がお互いに伝わっていくと言えばいいのか」

 知らず知らずに切磋琢磨(せっさたくま)していた時代だった。
「みんな、人がいたとしても跳んでいた。混んでいても、ちょっと隙を見つければ跳んだ。1点に集中して跳べば跳べる。ちょっとでも気をそらせると跳べない。あの集中力というのは、すごかったですね。育てる環境としてはよくなくても、奮い立たせる環境としてはよかった。だから、名古屋にいたメンバーには感謝ですね」

 だからこう考えている。
「環境がどうあれ、言い訳することなく、取り組んでいかないと。環境がいいせいで甘えが出ることだってあるわけだし、悪い中でもできることはたくさんありますから」

小さな一歩が大きな一歩に

 恩田のスペリオール愛知FSCは、大きいクラブではない。歴史も新しい。そうそうたるクラブが数ある中で、存在感をどのように出していくのか、それは決してやさしいことではない。

 すると、恩田は言った。
「こんな励ましを受けたことがあるんですね。『小さな一歩が大きな一歩になるから頑張りなさい』。そのつもりです」

 そして続けた。
「リンクに立ったら、もう選手本人がやるしかない。だからこそ、そこに立つまでの、それこそ毎日のプロセスが大事です。そこで悔いのないようにして、選手を送り出したいですね。自分がそうであったように、選手に完璧に演技させたい、それだけを思っていますね」

 いかなる環境でも言い訳せずに取り組みたい。選手を万全な状態でリンクに立たせたい。選手とともに競技者でありたい。
 そこに、恩田美栄の指導者としての信念があった。

(第7回に続く/文中敬称略)

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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