恩田美栄がコーチに専念する理由 フィギュアスケート育成の現場から(5)

松原孝臣

「選手ではなくても、競技者でいたかった」

生徒を預かる責任の重さを自覚したことが、指導者に専念する道を選ばせた 【積紫乃】

 先にも記したように、クラブを立ち上げたあと、スケーターとしての活動を停止し、教えることに専念してきた。
 それもまた、思い切った選択ではある。

 恩田も「掛け持ちしたいという気持ちはありました」と言う。
 だが。
「やっていく中で、自分が2つを同時に行なえるほど器用ではないな、ということに気づいたんですね」

 二束のわらじを履いていて、痛感したこともあった。

「ショーの練習は、だいたい3月の終わりから1カ月くらいゴールデンウイークにかけて作り上げていたんですね。掛け持ちするようになって1年目も2年目も、名古屋に帰れる時は帰って教えるようにしていたけれど、やっぱり生徒をほったらかしにしているような気がしたし、それだけ長い期間、放置しているのが苦痛でした。だったらもう、ショーの方をやめて、コーチに専念したほうがいいだろうなと」

 生徒を預かる責任の重さを自覚したことが専念する道を選ばせた。
 加えて、どちらを選択するかを考える際、プロフィギュアスケーターではなく、コーチを選んだのには、現役時代からの一貫した考えが根底にあったからだと言う。

「もともと子供が好きで、教えるほうに進みたいという気持ちはありました。それとともに、競技へのこだわりが強かったということですね。現役であった頃から、フィギュアスケートは芸術を含んだ競技であると考えてきました。言ってみれば、芸術的なスポーツ。競技だからこその独特の緊張感があると思うんです。

 自分自身が選手ではなくなったとしても、競技者でいたかった。その世界に身を置いていたかった。どのように進んでいけばいいのかを考えてみて、自分のそのポリシーは変わっていないことに気づきました。だからエンターテインメントの世界よりも、アスリートとしての世界がいい。自分で演技はしないけれど、コーチとしてもできる、と答えが出ました」

最後の1年で学んだことが教える上での糧に

トリノ五輪の翌シーズン、1年をかけてコーチになったときの糧を得た 【写真:アフロスポーツ】

 恩田は、トリノ五輪シーズンの翌シーズンをもってやめた。五輪のあるシーズンを区切りとする選手が多い中では、珍しいケースと言えるかもしれない。
 そこにも、「教える」ことへのこだわりがあった。

「トリノ五輪の次のシーズンの時は、いずれ指導者になろうという意識はあったんですね。だから、1年かけて、コーチになったときの糧にしたいという思いがありました。というのも、04年から米国、カナダに渡り、競技に取り組む中で、それまで自分が捉えていたフィギュアスケートとは異なる考え方を知ったり、教えられたりしました。それこそ、振り付けがどういうものなのかを学んでいった時期でもあります。それをもう少し勉強したいという思いもあって、1年、続けたんです。今振り返っても、あの時期に学んだりしたことは、教えるときの糧になっていると思いますね」

 そして、コーチとしての現在がある。
 とはいえ、教え続ける中では、さまざまな葛藤があった。悩みだってあった。

「正直、始めた頃は、もっと簡単だと思っていたところがありました」

 選手として培ってきた、学んできたことをどう生かしていけばいいのか。自分が練習してきた頃との違い。
 壁にもぶつかりながら、今日まで進んできた。

(第6回に続く/文中敬称略)

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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