偉大なキャリアを持つ中田浩二が現役引退 若手へ継承する黄金世代17年間の財産

元川悦子

強行突破での海外移籍

海外移籍も経験。マルセイユでは苦汁をなめたが、バーゼルではカップ戦優勝を果たすなど、選手として一回り大きく成長した 【写真:FAR EAST PRESS/アフロ】

 そして翌05年、トルシエが率いていたフランスの名門、オリンピック・マルセイユへの移籍に踏み切る。ゼロ円移籍が一般的でなかったこの時代に、契約満了を待って海外へ赴くというのは極めて大胆な行動で、日本サッカー界でも大いに物議を醸した。それだけのリスクを冒しても、中田は厳しい環境で戦うことを強く求めた。結果的にこの果敢なチャレンジが後輩たちの海外移籍の道を切り開くことにつながったのは確かだ。

「03年に左ひざのけがをして自分を客観視した時、サッカー選手はいつ大けがをするか分からない。ならば、自分の夢や目標を追いかけた方がいいと強く思った。ワールドユースで頂点に近づき、その後もギリギリの戦いをいろんな相手とやったけれど、Jリーグにいると外国と戦う機会が極端に少ないし、23〜24歳で個人よりチームを重視しなければいけなくなる。海外移籍の話が来た時、『自分はこのまま終わりたくない。もっと切磋琢磨(せっさたくま)してギリギリの戦いをもう一度、やりたい』と感じたんです」と彼はキャリアを左右した選択の理由をこう吐露したことがある。

 とはいえ、フランス時代は順風満帆とはいかなかった。トルシエは瞬く間に解任されてしまい、中田は差別的な扱いを受ける。一時はトップチームの練習にさえ参加させてもらえないほど冷遇された。身体能力重視のフランスサッカーにも戸惑い、1年近く試合から遠ざかる事態に陥った。それでも06年1月にスイスのバーゼルに新天地を見いだし、センターバック(CB)や左サイドバック(SB)としてコンスタントに出場。06年ドイツW杯にも参戦した。自身2度目のW杯は惨敗という結果に終わり、「自分たちのメンタル的な弱さを痛感させられた」と不完全燃焼感をあらわにしたが、その屈辱をバネに欧州カップも経験。選手としてまた一回り大きく成長することができた。

「欧州のサッカーは前に出てどんどん守備をしないといけない。ボールを奪うというより、先に体をぶつけてくる。球際の重要性を痛感しました。自分は最終ラインに入っていたので、最終的な1対1がものすごく大事だった。182センチの自分は向こうでは高さがない方だけれど、絶対に競り負けちゃいけない。駆け引きやタイミングで勝負していました。言葉の面も英語を勉強して周りとコミュニケーションを積極的に取るようにしていたけれど、チームメートもよく自分の特徴を理解して合わせてくれました」と、彼はスイスで大きな手ごたえと自信をつかんだようだった。

 だからこそ、08−09シーズンも残留してチャンピオンズリーグに出場してほしかった。そのチャンスは実際にあったし、バーゼル側も契約延長を申し出てくれた。だが、本人は古巣・鹿島復帰を決断する。ゼロ円移籍という強行突破をしたことに対し、中田自身の中では申し訳ない気持ちがあり、いつか恩返しをしたいと考えていたはず。自分自身がきちんと仕事のできるうちに日本に戻りたかったのだろう。

日本サッカー界に還元できるもの

「夢のような17年間だった」と中田自身も語ったように、400試合を超える公式戦出場など、そのキャリアは偉大なものだ 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 鹿島復帰後は代表や欧州で積み重ねてきた経験を生かして、ボランチ、左SB、CBでマルチな活躍をしようともくろんでいたが、バーゼル時代の右ひざ半月板負傷の影響が大きく、復帰してすぐの08年夏に再手術に踏み切った。09年には実戦でプレーできる状態には戻ったが、岩政大樹や伊野波雅彦らCB陣、左サイドのパク・チュホの台頭などでレギュラー奪回に苦しむことになった。それでも最終的には鹿島のリーグ3連覇に貢献。そして10年の天皇杯、11年のヤマザキナビスコカップ制覇の原動力にもなる。オズワルド・オリヴェイラ監督体制では重要な役割を担い続けたのだ。ジョルジーニョ監督が率いた12年は出場機会が激減し、本人も苦悩したが、かつての恩師であるトニーニョ・セレーゾ監督が戻ることが決まった13年は「もう一度、勝負をかけたい」とチャレンジを決意。今季までの2シーズン戦い続けて、最終的に17年間の現役生活に幕を下ろすことになった。

「夢のような17年間だった」と中田浩二は改めて満足感を口にした。通算400試合を超える公式戦出場、そして国際Aマッチ57試合出場2得点という数字を見ても、彼のキャリアは偉大だった。小笠原ら同期の仲間、柴崎岳のような若い世代が自分の築いたものを受け継いでいってくれるという確信を持てたから、35歳の今、1つの区切りをつける決心がついたのではないか。小笠原は「ヤナギさん(柳沢敦)もそうだけれど、浩二はユースの頃からいろんな大会に出て、世界を見て、W杯に出て、お金じゃ買えない経験をしてきた。そういう選手と一緒にやれたのは若いやつにとっても大きな財産」と話したが、次世代の選手たちにはそのメンタリティーやハイレベルの経験をしっかりと継承していく責務がある。

 帝京高校時代の監督であり、恩師でもある古沼貞雄氏から「今、ここでやめて、他の選手より先に新たなスタートを切ることで、また違う道が開ける」と激励された通り、中田浩二には第2の人生が待っている。鹿島側は将来的に指導者やクラブスタッフとして働いてほしい意向を持っているが、当面はアンバサダーなどの役割を託して、彼自身が視野を広げる協力をするという。本人も指導者ライセンスを取得しつつ、今後の方向性を模索するつもりだ。

 いずれにしても、中田浩二には日本サッカー界に還元できるものが数多くある。新たなステージでの活躍に期待したい。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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