コーチへ転身した澤田亜紀の現在 フィギュアスケート育成の現場から(3)

松原孝臣

「自分たちだけじゃない」という思い

澤田はフィギュア界の変化を身をもって感じてきた1人でもある 【写真:アフロスポーツ】

 90年代からスケートを始め、やがて日本代表にもなり活躍してきた澤田は、フィギュアスケート界の変化を身をもって感じてきた1人でもある。
 05年9月、醍醐スケートが閉鎖された。澤田たちは拠点を失い、練習できる場所を求めて遠方へと転々とする日々が続いた。

「練習場所の確保のために、ほとんど濱田先生が動いてくださったのですが、それまで学校帰りに練習ができていたのに、毎日練習できる保証がない。どうしようと不安がありました」

 不安の中、支えになったのは「自分たちだけじゃない」という思いだった。

「京都だけじゃなく、仙台だとか、リンクがなくなって大変な思いをしているという話を聞いていました。当時、(町田)樹君は広島で滑っていたと思いますが、シーズンリンクなので夏は岡山に通っているということも聞きました。みんな苦労しているんだ、それでも成績を出しているんだから、甘えている場合じゃない、自分たちだけじゃないんだからと思いながら練習していました」

 利用者の減少で「スケート離れ」が指摘されることもあったように、リンクの運営の厳しさから閉鎖される場所が珍しくなかったのが当時だった。

期待される選手の1人だったが……

選手時代の経験は、コーチとして大切にしている思いにもつながっている 【積紫乃】

 不安定な環境の一方で、そのシーズン、フィギュアスケートをめぐる変化を感じた。
 05年の年末、代々木第一体育館での全日本選手権に出場した澤田は、7位の成績を残したが、この大会で何よりも感じたことがあった。

「お客さんがすごく入っていたのが印象に残りました。小学3年生のとき、全日本選手権を観に行ったのを覚えているんですね。場所は神戸だったと思いますが、『先輩が出ているから応援に来ました』という人ばかりで、観客席はがらがらでした。そういう頃からすると、すごい時代になったなと感じました」

 メディアの伝え方も変わっているのを感じ取った。

「ちっちゃいころは、グランプリシリーズも夜中にBSで観るものだと思っていましたし、全日本選手権も深夜枠でやっていた程度だったんですね。だんだんゴールデンタイムに映してもらえるようになって嬉しいなって気持ちがあったのを覚えています」

 その翌シーズン、シニアに転向すると、四大陸選手権4位など好成績を挙げた。これからを期待される選手の1人だった。
 だが、その翌シーズンの07−08年以降、はた目には意外に思えるほど、低迷が続いた。グランプリシリーズへの出場も、07年のフランス大会が最後になった。

 まっすぐに進むように思えた足取りの乱れはなぜ起きたのか。

 その理由、そして経験は、コーチとして大切にしている思いにもつながっている、と澤田は語る。

(第4回に続く/文中敬称略)

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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