コーチへ転身した澤田亜紀の現在 フィギュアスケート育成の現場から(3)

松原孝臣

変わらない明るさ

澤田亜紀は現在、関西大学で長光コーチのアシスタントとして生徒の指導を行っている 【積紫乃】

 いつ見ても、元気だ。いつも、そう感じてしまう。

 その姿と表情は、現役の頃も、コーチとして母校のリンクに立つ今も、変わらず明るさを放っている。

「今は(関西大学で)長光(歌子)先生のアシスタントをさせてもらっています。先生や本田武史さんをはじめ5人でチームの生徒を教えているかたちになります」

 澤田亜紀は言う。

 2005−06シーズンにフィギュアスケートのジュニアグランプリファイナル2位、全日本ジュニア選手権優勝。シニアに転向した翌シーズンにはグランプリシリーズで5位と8位になり、四大陸選手権で4位。国内外で活躍してきた澤田は、高さと力強さのあるジャンプ、でもどこか優しさのある演技が印象的だった。

 関西大学4年生だった2011年1月、22歳で現役を引退。卒業後、一度は就職したが、2年勤めたあとコーチに身を転じた。

「卒業してからコナミスポーツに就職したんです。そのあと、歌子先生から『スケートの先生をやってみない?』と誘われて転職しました。チームでは、ジャンプが得意だったので、ジャンプを見るのが中心になっています。あとはちっちゃい子をメインに教えています」

 コーチを始めてからのキャリアは浅い。それでも、選手時代の体験を踏まえ、必死に取り組んできた。

意識が変わるきっかけとなった野辺山合宿

 スケートを始めたのは5歳のとき。

「私はあまり記憶していないのですが。母が新聞でスケート教室の募集の広告を見つけたんですね。伊藤みどりさんとかをテレビで観ていていいなあとずっと思っていたらしくて、その広告をきっかけにスケート教室に入れられたという感じです(笑)」

 京都の醍醐スケートリンクで滑り始め、小学1年生のころから、濱田美栄に教わるようになった。

「スケート教室に行ったら会う友達がいたので、その友達に会いにいくっていう感覚でスケートをやっていた記憶があります。低学年の間は、ほかにもバレエやピアノだったりいろいろ習っていて、習い事の1つでしたね」

 そんな意識は、少しずつ変化していった。
 きっかけの1つは、同世代の選手たちを目の当たりにしたことにあったと言う。

「野辺山合宿に参加したときです」

 野辺山合宿とは、選手育成を目的に、全国から有望な子どもたちを集めて行なわれるもので、1992年にスタートしている。

「2回目に行ったとき、浅田真央ちゃん、舞ちゃんも一緒だったかな。野辺山合宿に参加すると、全日本ノービス選手権のシード選手が選ばれるんですね。その2人が選ばれて、同世代にすごい選手がいるんだなと思いましたし、自分も全日本に、と思うようになりました」

 同時に、夢も抱くようになっていた。

「それこそ関西から出たことがない、くらいの感じだったので、飛行機に乗りたい、海外に行きたいという思いをモチベーションに練習していたのを覚えています(笑)」

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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