奥大介、努力家の神出鬼没なアタッカー 磐田・横浜を支えた名手の足跡を振り返る

元川悦子

突然の悲報に大きなショックを受ける

38歳という若さでなくなった奥大介。彼のキャリアを振り返る 【写真:アフロスポーツ】

 かつてジュビロ磐田の黄金期を築いた鈴木政一監督率いるU−19日本代表が、ミャンマーの地で開催されたAFC・U−19選手権準々決勝で北朝鮮にPK負けを喫し、4大会連続でU−20ワールドカップ(W杯)を逃すことになった17日。日本のユース世代が初めてアジアを突破して世界の舞台を踏んだ1995年ワールドユース(カタール)の戦士で、磐田時代の鈴木監督にとって秘蔵っ子だった奥大介が急逝するという悲報が、皮肉にも飛び込んできた。

「神戸弘陵高校からジュビロに入団した頃、トップチームのハンス・オフト監督になかなか認めてもらえなかった大介を鍛えたのが、サテライトの指導をしていたマサさん(鈴木監督)でした。グランドを転々としながらのジプシー生活でしたが、大介は文句1つ言わずに黙々とトレーニングに励んでいた。そんな彼をマサさんも特にかわいがっていました」と当時、磐田のフィジカルコーチだった菅野淳氏(現FCソウルフィジカルコーチ)はしみじみと語る。

 19年前のワールドユースでブラジルから歴史的先制弾を挙げた奥のためにも、鈴木監督は世界の切符を手にしたかったに違いない。その願いがかなわず、憔悴(しょうすい)したベテラン指揮官の表情は実に痛々しかった。同じ鈴木門下生の名波浩・現磐田監督も大きなショックを受けていたというが、奥大介というのは、それほどまでに多くの仲間や指導者たちに深く愛されたフットボーラーだったのだ。

黄金期の磐田で中核を担う

磐田では97年、99年の年間制覇に貢献。黄金期を支えた 【写真:渡辺正和/アフロスポーツ】

 ここで、あらためて彼の足跡を振り返ってみたい。高校サッカー選手権で活躍した奥が磐田に加入したのは94年。磐田がJリーグ開幕から1年遅れて参戦を果たした年で、同期入団には藤田俊哉や田中誠らがいる。彼のスカウティングに関わった菅野氏は、次のようなエピソードを明かしてくれた。

「ジュビロはコーチングスタッフ全員で高校選手権の全会場を視察するのがヤマハ発動機時代からの慣例。その年はJ参入が決まったばかりで、新戦力のチェックに一段と力が入っていました。私は94年1月に三ツ沢球技場で行われた2回戦の神戸弘陵対日大山形戦に足を運び、中盤でひと際光っていた大介に目を奪われました。その後の報告会で『守備はあまりできないが、攻撃は光るものがあった』と説明した記憶があります。大介は簡単にボールを奪われない重心の低さがあり、パスを出した後は献身的に動いてサポートに入ることに長けていました。2列目のポジションからアグレッシブに前線へ飛び出していってゴールに絡むプレーにも迫力があった。相手DFは相当嫌だったと思いますね」

 非凡な攻撃センスを秘めた神出鬼没なアタッカーの片りんをすでに垣間見せていた奥。しかし守備力とフィジカル面が見劣りしたため、10代の頃は試合出場機会に恵まれなかった。94・95年はJリーグ出場ゼロ、96年も6試合のみにとどまっている。それでも前述の通り、ユース代表としての活躍ぶりは目を見張るものがあった。中田英寿、松田直樹らのちに日本代表を担う選手たちとともに世界ベスト8入りを経験したことで、本人も大いに自信を深めたに違いない。

 97年からは磐田でレギュラーポジションを獲得。97、99年のJリーグ年間制覇、99年のアジアクラブ選手権優勝に貢献している。彼自身も98年にはプロキャリア初のシーズン2ケタゴール(12点)を達成し、Jリーグベストイレブンに選出されるまでになった。

 磐田は2001年、スペインで開かれる予定だった世界クラブ選手権に挑むため、チームを率いていた鈴木監督が名波を中盤の真ん中に置いて2列目に藤田と奥、ボランチに福西崇史と服部年宏を並べるシステム通称“N−BOX”を採用。この斬新なシステム導入によって、奥のゴール前への飛び出しや決定力の高さがより一層際立ち、輝きを増した。残念ながら世界クラブ選手権は開催中止となり、彼らの華麗なスタイルが世界にお披露目されることはなかったが、当時の磐田の中盤は日本サッカー史の中でも傑出した存在だったといっても過言ではないはずだ。

20代前半には代表でも活躍

代表にも選手された奥は、コパ・アメリカやアジアカップを戦った 【Getty Images】

 磐田での優れた働きが当時のフィリップ・トルシエ日本代表監督にも認められ、奥はフランス人指揮官就任初戦となった98年10月のエジプト戦(大阪・長居)で日本代表デビュー。99年コパ・アメリカ(パラグアイ)や00年アジアカップ(レバノン)にも参戦するなど、20代前半の頃はすさまじい勢いが感じられた。

 彼がトルシエジャパン時代の一員として02年日韓W杯を狙っていた頃、じっくりインタビューする機会があったのだが、あまり面識のない取材者に対しても、奥は底抜けに明るく、笑顔を絶やさなかった。本人は自らを磐田のレギュラーに引き上げてくれたルイス・フェリペ・スコラーリ監督に感謝しており「フェリペはものすごく陽気。ラテンのリズムが自分にすごく合っていた」とうれしそうに言い、偉大な指揮官との出会いが飛躍につながったと考えている様子だった。どんな時もサッカーを心から楽しむ奥の姿勢は、フェリペ監督やドゥンガ(現ブラジル代表監督)ら多くのブラジル人、あるいは藤田、名波らテクニックあふれる先輩たちから受け継いだ部分が大きかったのだろう。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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