「空白の2年」を経て成長した山中亮平 代表復帰「僕だけの経験をプラスに」

斉藤健仁

エディー・ジャパンに初招集

恵まれた体格に鋭いパス、ロングキックが評価され、日本代表に復帰した山中亮平 【斉藤健仁】

 約3年半ぶりの代表復帰だった。9月21〜23日、東京・町田市においてラグビー日本代表が、11月のマオリ・オールブラックス戦&欧州遠征に向けて強化合宿を敢行。12番(インサイドセンター)の山中亮平(神戸製鋼)が、エディー・ジャパン体制となってから初めて参加し、鋭いパスと左足のロングキックで存在感を示した。

 日本代表を率いるエディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)は、11月に向けて「先発は同じ」と言うものの、ワールドカップまで1年を切ったタイミングで「新たに選出された選手にはチーム内で争ってほしい。山中は大きい(身長188センチ)し、左足でキックもできる」と期待を込めて選出した。

栄光から一転…「若かったですね」

資格停止処分中は周囲の人々に支えられた 【斉藤健仁】

 順風満帆だった。中学2年の時に、サッカーから校庭の隣でやっていたラグビーに転向。東海大仰星高時代は、自由奔放なプレーぶりから「ファンタジスタ」と称され、大型司令塔として花園で高校日本一に輝く。早稲田大に進学し、1年時、2年時には大学選手権制覇を経験。大学4年時には日本代表として初キャップを獲得した。神戸製鋼に進んだ2011年4月、ジョン・カーワンHC(当時)に認められ、ワールドカップを控えた日本代表合宿に参加していた。

 だが、一転して表舞台から姿を消す。同年4月、IRB(国際ラグビーボード)が行ったドーピング検査で、ひげを伸ばすために使用した育毛剤が原因で陽性反応を示した。山中は「若かったですね」と振り返ったが、2年間の資格停止処分が下され、プロとして入社した神戸製鋼ラグビー部を退部。ジムで体を鍛えることは問題なかったが、練習も含めてラグビーをプレーすることは一切禁止。ボールを触れることもなく、スパイクを履くこともほとんどなかった。それでも山中は楕円球をあきらめなかった。

「神戸製鋼が復帰する環境を整えてくれましたし、2年経っても25歳だったのでいけると思いました。ただ2年間は長かったです……。2年目の4月、あと1年あるのかとしんどかった。社員として仕事をし、いろんな人に支えられていて恩返しをしないといけないという思いがあったので気持ちが折れませんでした。(2012年の10月に結婚した)妻にも支えてもらいました」。いつの間にか、山中の目の奥は赤くなっていた。

「僕だけしか経験できなかったことをプラスに」

距離が出る左足のキックも持ち味 【斉藤健仁】

 昨年の5月、山中は神戸製鋼ラグビー部に復帰を果たす。「ラグビーのことだけを考えたいし、チームに貢献したい」と再びプロを選択した。競技から離れていた2年間を「改めて日本を代表していたという実感が湧きましたし、メンタルも強くなった。僕だけしか経験できなかったことをラグビーの部分でもプラスにもっていきたい」と前を向いた。

 しかし、いくら元日本代表とは言え、ブランクのある「新人」にとっては、年々レベルの上がるトップリーグ、しかも名門・神戸製鋼の壁は厚かった。昨シーズン、山中の試合出場は2試合にとどまった。桜どころか、深紅のジャージーに袖を通すこともままならなかった。そのため、今シーズンは「結果を出さなければいけない」。その思いを感じたこともあるだろう、神戸製鋼は、今年から提携を結んだスーパーラグビーのチーフス(ニュージーランド)に山中を派遣した。

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著者プロフィール

スポーツライター。1975年生まれ、千葉県柏市育ち。ラグビーとサッカーを中心に執筆。エディー・ジャパンのテストマッチ全試合を現地で取材!ラグビー専門WEBマガジン「Rugby Japan 365」、「高校生スポーツ」の記者も務める。学生時代に水泳、サッカー、テニス、ラグビー、スカッシュを経験。「ラグビー「観戦力」が高まる」(東邦出版)、「田中史朗と堀江翔太が日本代表に欠かせない本当の理由」(ガイドワークス)、「ラグビーは頭脳が9割」(東邦出版)、「エディー・ジョーンズ4年間の軌跡―」(ベースボール・マガジン社)、「高校ラグビーは頭脳が9割」(東邦出版)、「ラグビー語辞典」(誠文堂新光社)、「はじめてでもよく分かるラグビー観戦入門」(海竜社)など著書多数。

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