ブラジル大会が示した『W杯』の価値 W杯2014ブラジル大会総括

大住良之

日本にとって“特別”だったブラジルW杯

ブラジルW杯に臨んだ日本代表は「史上最強」とうたわれ、上位進出も夢ではないと考えられていた。失った信頼を一刻も早く取り戻さなければけない 【写真:Action Images/アフロ】

 日本のサッカーファンにとってFIFAワールドカップ(W杯)2014ブラジル大会は特別な大会だった――。私はそう思っている。

 1970年、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)が放映した70年メキシコ大会で日本のファンはW杯と出合い、世界のサッカーのレベルを初めて目の当たりにした。そしてその大会の主役は、間違いなくペレを中心としたブラジルだった。以来、日本のサッカーはブラジルのようになることを夢見て歩んできた。

 その「サッカー王国」でのW杯。しかもアルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表は、本田圭佑、香川真司を中心に「史上最強」と考えられ、上位進出も夢ではないと思われていた。

 だが日本代表はコンディショニングに失敗し(そうとしか思えない)、グループCで1分2敗。ファンの失望は大きかったに違いない。日本代表への失われた信頼を取り戻すには、2006年大会のときと同じように4年間もの時間を要するのだろうか。それとも、今度はもっと長期間が必要になるのだろうか。

興味深くエキサイティングな試合の数々

 しかし「ブラジル2014」は、全体としては非常に興味深く、エキサイティングな試合が多かったように思う。グループリーグでは点差がついた試合がいくつもあったが、それは以前のように「地域格差」ではなく、両チームがアグレッシブに戦った結果、先制点を得たチームがカウンターで差を広げるという形だった。

 グループBの「スペイン1−5オランダ」、グループGの「ドイツ4−0ポルトガル」、グループEの「スイス2−5フランス」と、ヨーロッパ勢同士の対戦で大差がつくのは、近年のW杯にはないことだった。

 その一方で、アフリカ、北中米カリブ海、そしてアジアという「後進地域」のチームは、結果はさまざまだったが、どんな強豪にも臆せずに戦った。その筆頭は、ウルグアイ、イタリア、イングランドという優勝経験をもつ「死の組」に入り、「まったく希望なし」と言われながら2勝1分で乗り切っただけでなく、ラウンド16でもギリシャにPK戦勝ちして初めてベスト8にコマを進めたコスタリカだろう。5人のDFとGKナバスの超人的なセーブで堅固な守備を構築し、前線のルイス、キャンベラ、ボラニョスの速攻を生かすサッカーは見事だった。準々決勝でもオランダと0−0からPK戦にもつれ込む接戦を見せたコスタリカは、今大会の“シンデレラ”だった。

 引き分けの少なかったグループリーグ(48試合中わずか9試合)と比較すると、ラウンド16以降のノックアウトステージは一転して接戦続きとなった。16試合中8試合で延長戦に入り、4試合でPK戦が行われたのだ。

 グループリーグでの「勝つ戦い」から「負けない戦い」に切り替えられたこともある。だがけっして守備的になったわけでなく、活発に攻め合った結果の延長戦が多かった。なかでもブラジルとPK戦にまでもっていったチリ、ドイツに延長戦を強いたアルジェリアの戦いは本当に見事だった。

今大会最大の驚きはブラジルの大敗

準決勝で地元ブラジルが1−7という信じがたいスコアでドイツに敗れたのは、今大会最大の驚きだった 【写真:ロイター/アフロ】

 そうしたなかで、準決勝で地元ブラジルが1−7という信じがたいスコアでドイツに敗れたのは、今大会最大の驚きだった。準決勝での6点差も初めてだし、ブラジルがW杯という大舞台で7失点を喫したのも初めてのことだった。

 この試合、エースのネイマールが負傷で不在だったうえにキャプテンのチアゴ・シウバを出場停止で欠いていたブラジルだったが、キックオフから果敢に攻め込み、20分間ほどは好試合となった。前半11分にCKから先制を許したものの、ブラジルはまだ意気盛んだった。ところが前半23分に見事なコンビネーションで守備を崩されて2点目を奪われると、魂が抜けたようになってしまい次々と失点。前半29分、わずか6分後には、スコアは0−5となっていた。

 なぜこのようなことが起こったのか。ひとつはチアゴ・シウバを欠き、精神的なリーダーがいなかったことが挙げられるだろう。しかしそれ以上に、セットプレーではなく守備を完全に崩されたこと。そして、何よりも得点を許したドイツ選手がFWミロスラフ・クローゼで、これがブラジル代表の大先輩ロナウドがもつ最多得点記録を抜くW杯16点目だったことがブラジル代表にショックを与えたように、私は感じた。

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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