スター養成アカデミーが輩出した傑作たち コートジボワールの強さの秘訣に迫る

遊びのような練習で身につけた確かな技術

アカデミーの選手たちは成功に飢えている。そして成功した卒業生たちには強い絆が存在する 【写真:ロイター/アフロ】

 ジェルビーニョもまた、アカデミーで過ごした日々のことをよく覚えていた。「僕はアビジャンで、プレ・セレクションのテストを受けた。200人の入学者候補と共にやった、5対5の小さな試合。ルールは明瞭だった。アカデミーは特別な何かを持った選手を取る。そして選考に受かった者の名は、ASECアビジャンの新聞に掲載されるんだ」

 彼がジェルビーニョのあだ名をいただいたのも、そこでだった。「このあだ名は、ブラジルに起源を持つコーチがつけてくれたんだ。彼は、僕がしょっちゅう技術を磨こうとして練習していたのを見ていたからなんだよ」と彼は回顧する。

 ギルーがこのセンターから去る02年まで、センターの名物となっていたある儀式があった。例えば毎朝、非常に長い時間をかけ、子どもたちは裸足で、足をつかったお手玉のような、曲芸的ボールさばきの練習をしていたのだ。

「それは、足でボールを手懐けることを学ぶための練習だった」とヤヤ・トゥーレは思い出す。「僕はあの練習が大好きだったな。以来、僕は裸足でプレーすることに目がないんだ」。それから、サッカーのボールではなく、テニスボールを使って行うボールコントロールを身につけるためのドリルもあった。「一見、遊びのような感じがする練習なんだ」とゾコラは説明する。「でも実際には、ボールを使って何をするかを知ること、そしてとるべき体のポジションを僕らに学ばせてくれたエクササイズだった」

アカデミー生たちに生まれた強い絆

 一方、当時のヤヤは、『練習の鬼』と評判だった。「毎日、僕は他の皆より1時間早く起き、ちょっぴり基本の体力トレーニングをやるために、朝5時ごろに海岸に行っていたんだ。何としてでも成功したいと思っていたから、狂ったように練習したよ。兄のコロは最初、僕を狂人扱いしたけど、しまいには僕と一緒に海岸に来るようになったのさ」。成功への野心にとりつかれた小さなヤヤは、よく他の仲間たちのように週末に両親のもとに戻ることさえも拒否していた。「再び(アカデミーに)戻ることができなくなることを恐れるあまり、僕は6カ月に1度しか家に帰らなかった」とヤヤは語る。

「僕らは歯を食いしばって頑張った。でも僕らアカデミー生は皆、自分たちが何かをやってのけるための特別なチャンスを手にしているのだと知っていたんだ。そのとき、僕らがいる場所に至ることを夢見ていた多くの友人たちがいた。だから、行き着くところまで行き、成功するために血を吐くような努力をする準備はできていたんだよ。気を抜いたり諦めたりするなんて問題外だった。そして僕らは、互いに互いを支えあっていたんだ。それは、本当に素晴らしい人生の学校だった。それゆえに、すべての元アカデミー生たちの間には、非常に強い絆が存在するんだよ」

 現地の見習いサッカー選手たちは、自らの身をいたわるようなまねはしない。月曜の朝から土曜の昼まで、プロを夢見る選手たち(13歳以下から始まり、15歳以下、17歳以下のグループがある)は、眉をひそめることなくハードワークに打ち込む。ギルーの哲学に関して言えば、今、それはより正統派のアプローチに場所を譲った。そしてこれら栄光に満ちた元アカデミー生の軌跡は、今もそこに残っている。

 見習いサッカー選手たちが生活する寄宿舎の大部屋のドアには、今、成功を収めた卒業生たちの名前が刻まれているのだ。ヤヤ・トゥーレ、ゾコラ、ジェルビーニョ。そう、あたかも未来に向けた扉のように。

(翻訳:木村かや子)

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著者プロフィール

1968年3月3日生まれ。『レキップ』紙を経て、98年より『フランス・フットボール』誌の記者として活躍。フランスのほかアフリカサッカーを得意分野とし、かの地に広いネットワークを持つ。特にドログバと親交が深く、取材がなくても電話で近況を報告し合う仲。2007年には同誌上でチェルシー批判を含むドログバの激白インタビューを発表し、国内外でセンセーションを巻き起こした。趣味は自分の子供と遊ぶこと、テニス、文学

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