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スター養成アカデミーが輩出した傑作たち
コートジボワールの強さの秘訣に迫る

W杯戦士6人を輩出

コートジボワールにはトゥーレ兄弟をはじめ、スター選手を輩出するアカデミーが存在する。彼らはどのようにして成功をつかんだのだろうか
コートジボワールにはトゥーレ兄弟をはじめ、スター選手を輩出するアカデミーが存在する。彼らはどのようにして成功をつかんだのだろうか【Getty Images】

 コートジボワール・アビジャンの東、エブリエ湾のほとりの、ソル−ベニと呼ばれる地区に、アビジャンのクラブASECミモサスを背にして建つ、アカデミー・ミモシフコム(創設時のふたつのスポンサーの名)の施設がある。2ヘクタールの広大な土地の上にそびえるこのモダンなトレーニング・センターは、どこからともなく浮かび上がったオアシスのようだ。ASECの一軍や、時にキャンプの際にはコートジボワール代表によって使われることもあるふたつの芝のピッチ、ボールが外に出ないよう壁に囲まれた土のグラウンド、ジム、ミニ・テニス用のコート3、冷房完備の12の部屋を持つふたつの寄宿舎、教室が3、そしてセミナーなどに使われるハイ・スタンダードなホテルまでが、ここには備えられている。


 その贅沢さは、必然的に、エムプトの漁村の住民たちのスパルタ的なまでに質素な生活環境と、はっきりと対照を成している。ここ20年ほどの間に350人以上の見習いサッカー選手たちが、このセンターを通り抜け、そのうち6人が、ワールドカップ(W杯)ブラジル大会に向かうコートジボワール代表チームに入っている(コロ・トゥーレ、ヤヤ・トゥーレ、ディディエ・ゾコラ、ブバカル・バリー、ジェルビーニョ、サロモン・カルー)。


 1994年に元フランス代表選手ジャン=マルク・ギルーによって始められたこのアカデミーの理念は、この学校を、“チャンピオン製造所”にするというものだ。その初期に、早い場合は12歳からスカウトされたちびっ子スターたちの中には、ゾコラ、コロ・トゥーレ、アルナ・コネらがいた。

欧州へ続々と選手を送り込む

「ギルーは、僕の父のような存在だ」と、コートジボワール代表のベテラン、ゾコラは証言する。彼は94年から2000年までをそこで過ごした。「ギルーは僕の人生を変えてくれた。彼がいなかったら、おそらく僕はずっとコートジボワールにいたことだろう。でも両親があそこに僕を旅立たせてくれたとき、僕は(家を離れるのが寂しくて)これ以上無理というくらい泣いたんだけどね」


 彼はいまだ、アカデミー参入の1年後に、合格の賞として受け取ったサッカーシューズのこと、カルシウム不足を補うために毎朝飲んだグラス一杯の牛乳のことを覚えている。「バキー(バカリー・コネ)以外の皆が牛乳を飲んでいた。そのせいで彼は背が伸びなかったんだよ」と彼は笑う。また、トーナメントに出場した際に稼いだ500CFAフラン(約106円)の商品券のこと、後にヨーロッパに向け旅立った日のことも忘れていない。彼は移籍金70万ユーロ(9700万円)で、ベルギーのゲンクに参入した。


「僕は欧州に旅だったアカデミー最初の選手だったから、失敗は許されないことだった」とゾコラは振り返る。それは、アカデミーでいまだ破られていない最高記録である140万ユーロ(約1億9400万円)でアンデルレヒト(ベルギー)に送られた、アルナ・コネの移籍に先立って起こった。それから、他の者たち(バカリ・コネやトゥーレ兄弟、続いてジェルビーニョら)が、輸出して良しと判断された同様の『生産品』として、先輩たちのあとに続く。それらの移籍は、何より、アカデミーがうまく機能するために必要不可欠なことだった。

アカデミーに感謝するヤヤ・トゥーレ

「アカデミーのことは、第二の家庭・家族として記憶に刻まれている」とヤヤ・トゥーレは言う。「僕は将来の見通しがあまりない、非常に慎ましい階層の出身だ。あのアカデミーは、僕が再び生きることを可能にしてくれた機関だった。実際、僕にとって、それは第二の出生だった。僕は、別の人生を再始動させたんだ。あそこで、アカデミーの人々は僕にすべてを教え、すべてを与えてくれた。(96年に)コロから1年遅れてアカデミーに入ったとき、僕はうれしくて、気が違ったみたいに興奮していたよ。これこそが僕のチャンスだ、と分かっていたんだ」


 ヤヤはまた「あの学校が、すべてにおいて完璧に僕の面倒を見てくれていたことは、今後も決して忘れない。アカデミーは、僕のためにすべてを負担してくれた。(勉学の)学費、食べ物、サッカーの用具、そして下着まで」と話し、感謝の念をにじませる。「とはいえ、もちろん厳しくもあった。早朝、まだ太陽が昇りきらず、薄寒い時間に、フィジカル・トレーニングのために早起きしていたのを昨日のことのように覚えている。でもおそらく最も辛かったのは、仲間のひとりが、移籍を実現して欧州に旅立っていくのを見るときだった。一緒に暮らしていたせいで僕らは皆、兄弟のようだったから、それは毎回、胸を引き裂かれるような別れだった」


 毎日、子どもたちは、10人余りの教師、5人のコーチの指導下で、教室(1日4時間の勉強)とトレーニング・グラウンド(1日3時間の練習)の間を行き来する。いまや30人ほどの選り抜かれた子どもたちを迎えるこのアカデミーで働き、出入りしている従業員はしめて130人だ。

パスカル・フェレ/Pascal Ferre

1968年3月3日生まれ。『レキップ』紙を経て、98年より『フランス・フットボール』誌の記者として活躍。フランスのほかアフリカサッカーを得意分野とし、かの地に広いネットワークを持つ。特にドログバと親交が深く、取材がなくても電話で近況を報告し合う仲。2007年には同誌上でチェルシー批判を含むドログバの激白インタビューを発表し、国内外でセンセーションを巻き起こした。趣味は自分の子供と遊ぶこと、テニス、文学

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