真の“フチボリスタ”リバウドが引退 栄光を手にしてきた男が選んだ静かな別れ

大野美夏

晩年はクラブの会長を兼務

晩年はブラジルでプレーしていたリバウド。クラブの会長を兼務し、息子と同じチームでプレーするなど挑戦を続けていた 【写真:アフロ】

 しかし、02年から移籍したミランでは不発に終わり、04年ブラジルに戻ってクルゼイロでプレーすることを決めた時、彼はこんなことを言っていた。

「 ラ・コルーニャ、バルセロナ、ミランと欧州サッカー界で7年間プレーした。僕にとっては、欧州サッカーの魔法のような魅力は今消えてしまっている。戻ろうとは考えていない」

 確かに、彼はこの後、欧州の主要リーグに足を踏み入れることは無かった。スペイン、イタリア、イングランド、ドイツから見れば一段格下のリーグとなるギリシャ、ウズベキスタンでプレーしたが、どこでも彼は手を抜いたりしなかった。もちろん、頂点を極めた者への大きな期待と批判は常に付きまとった。

 10年、リバウドはもう一つの挑戦に挑んだ。ペルナンブッコ州からサンパウロ州に出てきて、チャンスをつかんだのが92年から2年間プレーしたモジ・ミリン。リバウドは生涯モジ・ミリンへの感謝を忘れなかった。プレーヤーとしての本質は決しておろそかにせず、モジ・ミリンのクラブ会長に就任したのだ。クラブを建て直すことがミッションだった。

 11年サンパウロFCに移籍したのも、自らの挑戦でもあり、同時にモジ・ミリンとサンパウロFCとのつながりを強めるためでもあった。その後、アンゴラでもプレーし、サッカーの伝道師を務めた。

選手人生の終わりには息子とチームメイトに

 これまでに世界最優秀選手賞、W杯優勝、チャンピオンズリーグ優勝とすべてを極めた男が、選手人生の終わりに望んだことは息子のリバウド・ジュニオールとプレーすることだ。モジ・ミリンでプレーするジュニオールとチームメートになり、その夢も叶えた。

 96年に彼は息子のジュニオールについてこう言っていた。

「長男のリバウド・ジュニオールは5歳で、サッカーが大好きなんだ。もしも、彼が父親と同じようにサッカー選手になってくれたらこんなうれしいことはないね。もちろん、本当にそうなったら彼にかかるプレッシャーは計り知れないということも分かっているけど。彼は僕と違って右ききなんだ。でも、筋はいいよ。なんといっても父親譲りだからね」

 ひざを痛めながらも、チームを助けるため最後の力を振り絞ったリバウド。きっと息子や後輩たちは、彼の真剣な姿を見て受け継ぐものがあったことだろう。

人柄を表した引退声明の発表

 彼ほどの選手なら、華々しい引退セレモニーや記者会見があってもおかしくない。しかし、そこはやはりリバウド。最後まで静かなお別れを選んだ。自身のソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)で静かに引退声明を発表したのだ。

「家族や仲間に支えられてやってきた24年間のサッカー選手人生を涙と共にお別れする。すばらしい選手人生が送れたことに感謝する。いろいろな壁もあった、挑戦もした、落胆もした。でも、苦しみ以上に喜び、達成感、成長、変化にあふれていた。何かを伝えることもあったし、学んだこともあった。でも、一番大事だったのは神の導きに従い、固い決意を持って進むことだった。これらの月日、たくさんの人が私の人生とかかわった。

 私の選手人生は奇跡のようなものだった。故郷ペルナンブッコ州のパウリスタ市を出た時、私には何の財産もなかった。代理人もいなかった。支えは家族だけだった。しかし、遠くにあった夢は現実のものになった。私自身最大限の努力をしたし、神のご加護を受けたから、世界最優秀選手賞にも選ばれたし、W杯も優勝した。サッカー史に残るさまざまなタイトルを手にすることができた。私はお手本のような歴史を残したのかもしれない。しかし、これは言える。私は信じて戦ったから、これらを手に入れたのだと。

 すべてのアスリートたちに言いたい。辛い練習は、いつか黄金の葉でできた冠をもらうために耐えるのだと。そして、その冠は長くはもたないことも事実だ。しかし、われわれは永遠に続く冠を探し続ける」

 96年、彼は6年後の02年W杯を夢見ていた。

「6年後は30歳か……。神のみぞ知るだね。だけど、こうして普段から人一倍健康にも気をつけているから、プレーしてないことはないと思う。35歳位まで現役でやれるよ」と言っていたが、35歳どころか、摂生し続けアスリートとしての体をキープし続け41歳までプレーした。

 これからは、モジ・ミリンの運営とビジネスに力を注ぐ。リバウドの残した後姿をわれわれは忘れないだろう。

 お疲れ様。オブリガード(ありがとう)。そして、アデウス(さようなら)。戦士リバウド。

<了>

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著者プロフィール

ブラジル・サンパウロ在住。サッカー専門誌やスポーツ総合誌などで執筆、翻訳に携わり、スポーツ新聞の通信員も務める。ブラジルのサッカー情報を日本に届けるべく、精力的に取材活動を行っている。特に最近は選手育成に注目している。忘れられない思い出は、2002年W杯でのブラジル優勝の瞬間と1999年リベルタドーレス杯決勝戦、ゴール横でパルメイラスの優勝の瞬間に立ち会ったこと。著書に「彼らのルーツ、 ブラジル・アルゼンチンのサッカー選手の少年時代」(実業之日本社/藤坂ガルシア千鶴氏との共著)がある。

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