真の“フチボリスタ”リバウドが引退 栄光を手にしてきた男が選んだ静かな別れ
41歳でスパイクを脱ぐことを決心
元ブラジル代表で日韓W杯を制したリバウド。41歳でついにスパイクを脱ぐことを決心をした 【写真:Action Images/アフロ】
リバウドは、サッカー界にマーケティングや広告の波が押し寄せようとも、技だけで勝負をした真の“フチボリスタ(サッカープレーヤー)”だ。
現代のサッカー界は、本人の力と同等に、それをアピールする手段を持つものが上に上がっていく。リバウドと同時代に活躍したロナウドがスポーツマーケティングの申し子であったことに反して、リバウドは最後まで足だけで自分の道を築いてきた。大口をたたくこともなく、行動や言動で“ポレミカ(論争)”を巻き起こすことなく、淡々とボールを蹴って世界の頂点まで上った。そんな職人リバウドがついに41歳でスパイクを脱ぐ決心をした。引退の時まで、鋼のような体を保ちながら。
成功に浮かれず、自分の立場を冷静に判断
当時リバウドは名門パルメイラスの中心選手として大活躍し、代表にも呼ばれ、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのスターだった。パルメイラスは1試合平均3ゴール以上という驚異的な攻撃力で95年全国選手権を優勝し、ブラジル代表のメンバーだった両サイドバックのカフー、ジュニオールに加え、DFクレーベル、ボランチのアマラウ、フラビオ・コンセイソン、FWにはルイゾン、ミューレル、ジャウミーニャとタレントぞろいのチーム。そのマエストロ(指揮者)がリバウドだった。
信じられないことに、彼はコッパ・ド・ブラジル(ナビスコ杯のようなカップ戦)決勝第2戦という重要な試合の数時間前に、ポルトガル語の下手な日本人のインタビューに1時間半も付き合ってくれた。すでにブラジルではその名を知らぬものはいないという肩書からは想像もできないほどシャイで素朴な人柄に驚いたものだ。つたなかった私のポルトガル語に辛抱強く耳を傾け、ペルナンブッコ州(レシフェ近郊の町出身)だけあって北東部なまりでやさしく話してくれたことを思い出す(パルメイラスは負けてしまった。私、疫病神?)。
当時、スターダムにのし上がってきた自分の立場を冷静に判断していたことも印象的だった。
「まるで、水がワインになってしまうように、わずか4年間ですべてが変わった。生活すること、食べることさえ難しかった中からの成功を僕は心から喜んでいるけど、だからといって別におごる気持ちはない。急に有名になったり、お金持ちになって、慢心してしまう人も世の中にはいる。でも、ぼくは自分自身は何も変わるつもりはない。有名になる前からの友達と普通に付き合いたい」
それは、彼が貧しかった時代の苦労を決して忘れなかったからだ。
「困難が多かった。ただ、厳しい生活ながら、父が練習に通うための交通費も出してくれた。それが、89年に父親が亡くなってからは、練習にも歩いて通い、母や二人の兄が助けてくれることもあって何とか1年間しのいだ。その間、時には食べるものさえなかったり、時間がなくて何も食べずに腹ぺこで練習に行ったりもした。その後、やっとクラブが援助をしてくれるようになり、そのお金で切符や食べるものを買ったりして、安心して練習に励めるようになったんだ。辛い時が多かったけど、固い意志を持ち続けた。サッカー選手の息子を持つのが父の夢だったんだ。父はどんな試合にも見に来てくれて、道端で友達とやるサッカーでも僕のプレーを楽しみにしてた。だから、父が亡くなっても、いつもそれを忘れず頑張った。いつか絶対成功すると信じてた」
彼の素朴さはそんな苦労と家族の愛に育てられたものだった。
世界最優秀選手賞とW杯の2つの頂点を極める
「どんな選手だってこの賞を受けるに最高の栄誉を感じるだろう。FIFAが僕を99年度の世界最優秀選手に選出してくれた時、本当に僕の夢は叶ったんだと思った。貧しかった子供の頃から、ここにたどり着くまでに戦い続けたんだから」
食べるものにも困った貧しい少年が、自分の足だけで栄光の頂点に上り詰めたのは、27歳の時だった。
日本人にとってリバウドといえば、2002年日韓ワールドカップ(W杯)でブラジルが優勝した光景が思い起こされるだろう。世界最優秀選手賞を取ってから3年後、リバウドがもう一つの頂点を極めた瞬間である。
振り返ってみると、当時はロナウドに注目が集まったが、リバウドは実に完璧な選手だった。絶妙なパスでゲームの組み立てもすれば、自らドリブル、華麗なフェイントで相手を惑わし、強烈なシュートやテクニカルなシュートで相手ゴールを襲った。さらに、細身ながらもパワーを持ち、スピードもあり、上背にも不足なくヘディングも得意だった。それでいて、守備を手伝うこともいとわない。リバウドはセレソンの心臓だった。