イタリアに蔓延するスタジアム差別問題 客席一部閉鎖や無観客試合が急増した理由

片野道郎

イタリアでは警察がウルトラスの活動を監視

差別的チャントの標的とされていたバロテッリ。厳罰の体制がとられても、なかなか根絶とはならない 【Getty Images】

 イタリアのウルトラスは、ゴール裏を自らの聖地であり、誰からも干渉されない聖域だと考えている。そして、その中でも大きな勢力を誇るグループになると、グループの年会費、チケットを会員に売りつけた販売マージン、オリジナルグッズの販売など、ゴール裏を舞台として多岐に渡る「ビジネス」を行い、幹部たちはそれだけで飯を食っているほどだ。彼らの多くは、ドラッグの密売などを通じて地下犯罪組織(マフィア)とつながりを持っているとも言われている。そのあたりは日本の「半グレ」とイメージが重なるところもある。

 潜在的な反社会性を持っている上に、実際にも暴力行為などで社会的な問題を引き起こしてきたため、ウルトラスは警察当局の恒常的な監視下に置かれている。各都市の内務警察には「DIGOS(イタリア国家警察統合捜査特別作戦部)」と呼ばれるウルトラス専門の部署が設置されているほどだ。

 もちろん、スタジアムでのウルトラスの活動もすべてコントロールされており、例えば今回日本で問題になった横断幕やフラッグの類いも、掲出するためには警察当局の許可を受ける必要がある。

 横断幕やフラッグをスタジアム内に持ち込むためには、掲出する責任者が大きさ、材質、内容(文字、図像)、掲出場所、掲出時間(コレオグラフィの場合)を記した申請書を、クラブを通して届出、チェックを受けた上で許可証をもらわなければならない。当日は、ゲート開門の1時間前までに許可証を提示して持ち込まなければ、掲出は許されない。

 このルールを破って無許可の横断幕やフラッグが掲出された場合は、即時撤去はもちろん、責任者のスタジアムからの排除、最長5年間のスポーツイベント入場禁止処分(開催時間中に警察に出頭して書類にサインしなければならない)という罰則が待っている。

 ウルトラスのリーダーの多くは、暴力や差別などさまざまな脱法行為によってこの処分を受け、スタジアムから排除されているのだが、それによってグループの中で影響力を失うということはないようだ。それどころか、「服役」と同じでむしろ箔(はく)がつくようなところすらある。このあたりは、洋の東西を問わず反社会的な集団に共通する部分だ。

社会不安を反映する形で現れるスタジアムの問題

 1980年代から90年代にかけて、ヨーロッパのスタジアムで大きな問題になったフーリガン現象は、格差社会の中で、今の自分の境遇に不満を抱いていたり、生活に困難を抱えていたりする比率が高い階層を中心とするグループが、そうした不満や困難のひとつのはけ口として、徒党を組んで暴力を働くという行為に走ったものだった。

 イングランドやドイツ、スペインでは、クラブと国家権力(警察など)が協力してスタジアムからこうした輩を排除することに成功した。しかしイタリアでは今なお、ウルトラスという名前でそれが生き延びており、スタジアムを舞台とした差別や暴力という問題が解決されないまま残っている。

 ただ、イングランドやドイツなど他のヨーロッパ諸国にしても、差別や暴力といった問題が「社会から」消えたわけではない。年々深刻化する経済危機や失業率の上昇、移民の増加に伴うさまざまな文化摩擦などによって、社会不安はむしろ高まりを見せているし、それを反映する形で、外国人排斥や反ユダヤ主義といった排他的民族主義を掲げる極右勢力が政治の舞台で存在感を強めてきている。

 UEFAが「RESPECT」キャンペーンなどを通じて、差別や暴力といった社会的な問題に積極的にコミットする姿勢を打ち出しているのは、フットボールが持つ社会的影響力の大きさとそれに対する責任を強く自覚しているがゆえだが、その背景には、ヨーロッパ社会そのものが抱える、上で見たような苦い現実がある。

日本の祝祭的空気は世界に誇るべき財産

 ここまで見てきたイタリアの現状は、日本と比べればまったく別世界と言っていい。たまの帰国時に日本のスタジアムに足を向けるたびに思うのは、イタリアのスタジアムを支配する剣呑(けんのん)な雰囲気、敵意や憎悪が、日本ではまったく感じられないこと。オシムやザッケローニをはじめ、外国人監督や選手も口をそろえて賞賛しているスタジアムのポジティブで祝祭的な空気は、Jリーグが世界に誇るべき大きな財産だと思う。

 イタリアではよく「スタジアムは社会の鏡」だと言われる。それはおそらく日本にも当てはまるはずだ。幸福なことに、日本のスタジアムはこれまで、ほんのわずかな例外を除いては暴力や差別といった問題に直面することなく過ごしてきた。今回の横断幕問題は、「外の」社会が抱えるデリケートな問題がスタジアムに持ち込まれ、サッカー界がそれに直面することを迫られた事実上初めての事態だったと言えるだろう。

 それに対するJリーグの迅速かつ厳格な対応は、上で見てきた「ヨーロッパ基準」にあてはめても、まったく妥当かつ当然のものだったと思う。そしてそれ以上に、差別というリアルで社会的な課題に対するサッカー界としての姿勢を明確かつ躊躇(ちゅうちょ)なく示したという点で、大きな意味を持っているように思われる。

 もちろん、最も大事なのは、敵意や憎悪といったネガティブな感情を醜くむき出しにしない、ポジティブで祝祭的なスタジアムの空気、そしてその根本にあるスポーツマンシップを、サッカーにかかわるすべての人々(協会、クラブ、選手からマスコミ、サポーターまで)が力を合わせて守っていくことだ。今回の一件をめぐる議論をイタリアから追っていると、そうした合意があらためて確認され、広がりつつあるように見える。それはとてもうれしく、また心強いことだと思う。

<了>

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著者プロフィール

1962年仙台市生まれ。95年から北イタリア・アレッサンドリア在住。ジャーナリスト・翻訳家として、ピッチ上の出来事にとどまらず、その背後にある社会・経済・文化にまで視野を広げて、カルチョの魅力と奥深さをディープかつ多角的に伝えている。2017年末の『それでも世界はサッカーとともに回り続ける』(河出書房新社)に続き、この6月に新刊『モダンサッカーの教科書』(レナート・バルディとの共著/ソル・メディア)が発売。

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