羽生結弦が信じた力…困難乗り越え、頂点へ 震災から3年、金メダルまでの軌跡

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キャリアの転機、練習拠点を仙台からカナダへ

12年5月、練習拠点をカナダへ。羽生はオーサーコーチ(右)と二人三脚で高みを目指してきた 【写真は共同】

 続く12−13シーズンは羽生にとってスケート人生の転換期となった。12年5月、バンクーバー五輪でキム・ヨナ(韓国)に金メダルをもたらしたブライアン・オーサーコーチに師事するため、練習拠点を仙台からカナダのトロントに移したのだ。

「カナダへ行く決断は非常に難しいものでしたし、仙台に残っていたいという思いもすごくありました。コーチを替えるというのは自分にとってものすごく大きな変化でしたし、言葉の壁は大きかった」と、当時の苦労を明かす。友人もいない異国での生活に慣れない英語での会話。それでも2年後に開催されるソチ五輪を見据え、より高みを目指すために必死で練習に打ち込んだ。

 その効果は早々に表れ、12年10月のスケートアメリカと11月に行われたNHK杯のSPで当時の世界歴代最高得点を更新。五輪前哨戦としてソチで開催されたGPファイナルでも2位という成績を残した。さらには年末の全日本選手権でも高橋とのハイレベルな争いを制し優勝。一気に五輪のメダル争いに名乗りを挙げる存在にまで成長を遂げたのだ。

 そして今季、オーサーコーチとのコミュニケーションも円滑になり、その才能が全面的に開花する。GPシリーズでは13年10月のスケートカナダ、同11月のエリック・ボンパール杯ではチャンに敗れたものの、ファイナルではそのチャンに雪辱。世界王者との切磋琢磨(せっさたくま)がさらなる進化を呼び起こした。羽生はライバルとの関係をこう語る。

「今シーズンを通してパトリックと何度も対戦するうちに、自分のペースというのがいかに大事かが分かりました。現在は試合に臨む上で良いメンタルコントロールができるようになっています。パトリックがいなかったら今の自分はなかったと思います」

 オーサーコーチも愛弟子の成長に目を細める。
「数年前から彼のスケーティングを見ているが、かなり成長、成熟してきている。このプロセスは草が伸びてくるのをじっと見守るようなものだが、以前との違いが明確になってきた。スケーティングスキルもスタミナも演技も成長してきたと手応えを感じている」

1つ1つの経験が自身の糧に

 全日本チャンピオンとして乗り込んだソチ五輪では、この大会より新設された団体戦に出場し、チャンやエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)らを抑えてトップに立った。演技後は「足が震えた」と笑ったが、緊張を感じさせない堂々とした滑りを五輪の舞台で披露する。迎えた個人戦。金メダル獲得の期待を背負いながらSPで国際大会では史上初となる100点超え(101.45点)を果たし首位に立つと、FSではミスが出たものの何とか逃げ切った。

 この4年間、多くの苦しみを乗り越えてきた。それができたのは「信じること」の大切さを知っていたからこそだ。未曾有の大災害、異国での暮らし、ライバルとの激闘。その1つ1つが羽生の糧になっている。「表彰台に上がったときは、日本の皆さん、世界中で応援してくださった皆さんの思いを背負って演技できたことをうれしく思いました」。この結果で、支えてくれた人々に恩返しができたと感じている。

 震災については多くを語らない。
「本当に何と言っていいか分からないですし、自分が何ができたかというと、自信を持ってこれができたというものが何もなかったんです。ただ、五輪の金メダリストになれたからこそ、復興に役立てることもあるんじゃないかと思っています」

 今後は五輪チャンピオンとして追われる立場へと変わっていく。「今日の演技はベストからは程遠かったです。まだまだできる部分があると思っています。3月には世界選手権があるので、それに向けてまた一生懸命頑張りたいと思います」。進化し続ける19歳は、金メダルを取ってもなお貪欲だ。

<了>

(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)

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