ルール変更と日本ジャンプ陣の16年 長野五輪後の低迷を経て復活へ
それでも今大会は、金2、銀1、銅1を獲得した1998年長野五輪以来、4大会ぶりに、チームとして手応えを感じながら臨める五輪になったと言える。
長野五輪から16年。日本が低迷期を経て、復活するまでの流れを追ってみよう。
長野後、相次ぐルール変更に対応の遅れ
だが翌シーズン、それまでより長いスキー板を使えるようになった長身選手が、空中での操作技術を向上させてきたのをきっかけに、少しずつ日本勢は苦しくなる。さらに2000年夏からはジャンプスーツが身体サイズの+10センチまでとルール化され、2シーズンごとに+8センチ、+6センチとジャンプスーツが小さくなっていく流れが生まれた際には、スーツの開発に力を入れ始めたヨーロッパ各国に対し、日本は乗り遅れて後手に回ってしまった。
その後は、長身選手がさらに浮力を得ようと極端な減量を始めたのを見て、選手に減量命じるなど、各国の情報に振り回されるようになり混迷を深めた。04−05シーズンには極端な減量を懸念した国際スキー連盟がBMIルールを定めている。ジャンプスーツとシューズを合わせた合計体重(キロ単位)÷身長(メートル単位)の2乗でBMI数値を算出し、それが20.00以上ならば、身長の146%という上限の長さのスキー板を使用できる。しかし20.00を0.125下回るごとに、長さを0.5%ずつ減らされるというルールが実施された。
陸続きのヨーロッパ各国の選手と違い、日本人選手は長距離移動がある上に、食事も違う。長期間の遠征の中で選手たちは体重が減量しがちだ。それを維持するために神経質になってしまうことで、選手たちの集中力は散漫になり、結果が出せないという状況に陥ってしまった。
スーツの縮小が復活へのきっかけ
日本チームは05−06シーズンにヘッドコーチに就任したフィンランド人のカリ・ユリアンティラの方針もあって、パワージャンプを徹底する意識が高められていた。その効果が徐々に出ていたこともあり、サマーグランプリでは高校を卒業したばかりの清水礼留飛(雪印メグミルク)が初優勝を遂げる。また長らく低迷していた渡瀬雄太(雪印メグミルク)が上位に入り、竹内も優勝。総合ランキングでも竹内の3位を筆頭に、清水と渡瀬が10位に入る成績を残した。
冬シーズンになると+0センチは「スーツの消耗が激しすぎるから」と+2センチに変更されたが、それまでの+6センチに比べると細工をする部分が減った。日本チームは横川朝治ヘッドコーチらがカッティングなどの開発に力を入れていたが、各国のスーツ開発もジャンプ週間(年末年始の8日間)が過ぎたころにはある程度鎮静化。その中で日本勢は竹内が第20戦で2位、伊東が第24戦で2位、第25戦3位と、表彰台に上がり出したのだ。
葛西は「ジャンプ週間の時に使った新しいカッティングのスーツが良くなかったので、たまたまあった開幕戦のころの古いスーツを使ってみたら、いきなり飛距離が5メートルも伸びた。これまで負けている時は『自分たちの技術が劣っているのでは』と不安になっていたけど、あれで『自分たちの技術は通用する。今まではスーツにやられていたんだ』と気がつきました」と言うのだ。
スーツサイズに関するルールも、今季は+2センチはそのままで、「尻周りの部分が前後同じサイズになること」という条件が追加されただけ。横川コーチは「細工できる可能性が少なくなればなるほど自分たちはうれしい」と話す。選手たちが自分たちの技術に自信を持って臨めていることが、今の好調の源になっている。
まだ不完全とはいえ、スキージャンプはウインドファクター(風の条件による得点)やゲートファクター(スタート地点による得点)のルールもあって、以前より平等性が保たれるようになった。ソチ五輪は、日本の真の実力を問われる大会にもなる。
<了>
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ