箱根駅伝、強まる山の5区偏重とその弊害=監督からは距離短縮を求める声も
「5区がもう少し短ければ……」
近年の箱根駅伝は、5区の結果が総合成績にも直結。前回Vの日本体育大も、5区・服部翔大(写真中央)の快走で勝負を決定付けた 【写真:北村大樹/アフロスポーツ】
箱根駅伝に山の上り下りは欠かせないものでもある。これまで幾多のドラマが演じられた区間だ。だが、最近は5区の出来が勝負を決してしまう確率も多く、レース自体が大味になっている感も否めないだろう。エース区間である“花の2区”の攻防よりも、“山上りの5区”の出来の方が重要にすらなっている。
多くの監督がそろって口にするのは、「5区がもう少し短ければ……」という言葉だ。06年の82回大会より、往路の小田原中継所が“鈴廣前”から“メガネスーパー本社前”に移動し、5区は2.5キロ長くなった。
その威力は、翌年の83回大会で発揮された。“山の神”と称されていた今井正人(順天堂大、現・トヨタ自動車九州)が圧倒的な強さを見せたのだ。コース変更前の81回大会も、これまでの区間記録を2分以上更新する快走で、チーム順位を15位から4位に上げた。それが、コース変更後の83回大会では、5位でたすきを受け取ると、4分09秒差あったトップの東海大を逆転。さらに1分42秒突き放す驚異的な走りで往路優勝した。個人でも、1時間18分05秒の好記録で区間賞を獲得している。結局、順天堂大は復路も逃げ切り、総合優勝も果たした。
状況を一変させた“新・山の神”の登場
“新・山の神”と言われた東洋大・柏原竜二は、4年連続で5区区間賞を記録し、3度の総合優勝に貢献した 【写真:北村大樹/アフロスポーツ】
だが09年の85回大会になるとその様相は一変した。“新・山の神”と言われる東洋大の柏原竜二(現・富士通)が登場したからだ。
東洋大は、02年に旭化成から川嶋伸次監督(当時)を迎えて強化を始め、シード権獲得常連校にはなっていたが、優勝はまだなかった。この年の東洋大も、4区終了時点では9位。トップは、矢沢曜、三田裕介といった力のある1年生や、エースの竹澤健介が快走した早稲田大で、東洋大とは4分58秒もの差を付けていた。
だが、5区を任された1年生の柏原は、07年の今井の区間記録を47秒更新する1時間17分18秒で早稲田大を逆転し、さらに22秒引き離して往路優勝した。復路でも、早稲田大と競り合いながらも、東洋大が層の厚さで初優勝を果たしたのだ。
8大会中5回で5区区間賞チームが総合V
翌11年は、早稲田大が一矢を報いて東洋大の3連覇を阻止したが、12年は2区でトップに立った東洋大が快調に走り、柏原も1時間16分39秒の区間新で往路優勝。2位の早稲田大には5分07秒、4位の駒澤大には6分43秒の貯金を作り、復路も楽に逃げ切っての総合優勝という結果となった。
この大会での東洋大の区間賞獲得数は6。ライバルの駒澤大や早稲田大が、4区までに大差を付けようとして各選手に力みが出たのに比べて、絶対的エースの柏原を擁する東洋大の選手たちは余裕を持ち、自分の力を出し切る走りができた。このことが、2位駒澤大に9分02秒の大差を付ける総合優勝につながったのだろう。
柏原が卒業した前回も、勝負を決めたのは5区だった。4区終了時点では東洋大がトップだった。1、2、3区に主力の田口雅也と設楽啓太・悠太兄弟を置き、もくろみ通りに先頭を快走していた。しかし、1分49秒差の2位でタスキを受けた日本体育大の5区・服部が、区間賞の走りで逆転すると、さらに2分39秒差を付けて往路を制した。復路もそのまま逃げ切り、日本体育大が総合優勝を果たした。
5区が23.4キロに伸びてから8回中5回で、5区区間賞のチームが優勝しているという結果。その走りだけで勝負が決してしまうとなれば、4区までの競り合いへの興味が薄れてしまうことになるし、箱根駅伝の面白さが半減してしまうことにもなりかねない。