高橋成美と木原龍一が過ごした激動の1年=ペア誕生から失意を経て、いま思うこと

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ペア結成から激動の1年間を高橋(左)、木原(右)が振り返った 【スポーツナビ】

 11月8日から10日まで行われたフィギュアスケートのグランプリ(GP)シリーズ第4戦・NHK杯。会場となった国立代々木競技場第1体育館で大きな喝采を浴びた2人の日本人選手がいた。高橋成美と木原龍一(ともに木下クラブ)。日本人同士のペア誕生は実に7年ぶり(2006−07年に全日本ジュニアに出場した高橋成美&山田孔明組以来)で、国際大会に出場するペアも10年ぶり(03年アジア大会に出場した小笠原牧子&小笠原健雄組以来)だった。今年1月の結成から10カ月ということもあり、結果は最下位に終わったものの、日本フィギュアスケート界が長年待望していた日本人ペアの初々しい滑りに、多くのファンが温かい声援を送っていた。共に現在21歳。拠点を米国のデトロイトに置き、日々研鑽(けんさん)を積んでいる。彼らが見据えるものとはいったい何なのか。そして激動の1年間を振り返り、何を思うのか。高橋と木原の現在地に迫った。

迷いに迷ったペア転向

木原(下)にとっては初めて経験する技ばかり。当初は相当な苦労があったようだ 【坂本清】

 高橋はペアの選手として12年の世界選手権(ニース)で3位に入るなど実績を残している。しかし、昨年末に当時のパートナーであったマーヴィン・トラン(カナダ)とペアを解消。そこで白羽の矢が立ったのが、シングルの選手として世界ジュニア選手権にも出場した経験を持つ木原だった。日本人選手としては大柄な部類(175センチ)に入り、滑らかなスケーティングにも定評があったのだが、何より高橋と波長が合ったのが大きかった。

「陸上トレーニングで一緒にツイストなんかの練習をやっていたんですけど、タイミングがすごく合ったんですね。サイド・バイ・サイドのジャンプを一緒に飛ぶときも、ジャンプのタメの考え方が同じだったので、一緒に滑ったら合うんじゃないかと思っていました」(高橋)

 だが、木原にとってはシングルからの転向ということで当然迷いがあった。

「もちろんすごく悩みました。昨年末あたりから考えて、たぶん1カ月ぐらいは悩んだと思います。とにかく自分が納得するまでは動きたくなかったんです。でも選手として長く現役を続けたかったので、ちょうどタイミングが良かったのはありますね」(木原)

 木原が転向を決断すると、そこからはとんとん拍子で話が進んだ。今年1月にペア結成が発表され、佐藤有香コーチとジェイソン・ダンジェンコーチに師事することも決まった。日本スケート連盟から薦められたこともあるが、「有香先生をスケーターとしても、コーチとしても好きだった」という高橋の意見もあり、すんなりと事は運んだ。いまでは両者ともコーチ陣には大きな信頼を寄せている。

「すごく尊敬しています。最初のうちはこれまで積み上げてきたスケートの技術だったり、感覚もあったので、納得いかない部分があったりはしたんですけど、現在は100パーセント信頼しています」(高橋)

「やっぱり僕は分からないことがまだ多いので、有香先生とジェイソンにはいつもいろいろなことを聞いているし、頼りにしています」(木原)

失意の2人を支えたコーチの言葉

 初めて2人でリンクに立ったときは、どんな感覚だったのか。

「強化選手の練習なんかでシングルのトレーニングをしているときに、一緒に滑ったりしていたのでそんなに違和感はなかったんですけど、最初のペアのエレメンツを始めるときは、2人ともぎこちなくて……(笑)。それはそれで楽しかったですね」(高橋)

 木原にとっては初めて経験する技ばかり。当初は相当な苦労があったと振り返る。

「やっぱりやったことないものばかりだったので、最初は難しかったですね。例えばリフトは力もいるんですけど、力を使わなくても上げられることがあるんですよ。そういうところが分からなかったので、力の使い方、使いどころなんかですごく苦労しました。体重も以前は62キロくらいだったんですが、いまでは70キロくらいに増えています。食事の量は増えていないので、トレーニングで筋肉がついたんだと思います。これまで使うことがなかった筋肉を使うようになったことも影響しているんでしょうね。始めた当初にイタリアのある先輩ペアから『肩に筋肉がつくよ』と言われたんですけど、本当につきました(笑)。そう思うと懐かしいです」(木原)

 基本的な練習から始めて、形になったのはペア結成から約2カ月後の3月末。試合に出場できるレベルにまで持っていけたのは五輪出場枠を争うネーベルホルン杯(9月)の1カ月ぐらい前だったという。そのネーベルホルン杯では11位に終わり、出場枠を獲得できなかった。ショートプラグラム(SP)では4つの出場枠を争うペアのなかで2位(全体では8位)と好発進したが、フリースケーティング(FS)でミスが相次ぎ、5番手(全体では11位)に転落したのだ。

「僕としては、大会まで時間がなかったので最初は無理だと思っていたんです。ただ、実際は手が届くところまできたのですごく残念でした。全然手が届かないところだったら、『8カ月頑張ったね』で終わったと思うんですけど、本当にあと1歩だった。SPが終わったときは『いける!』と思っていたので……」(木原)

「ネーベルホルン杯まであっという間に時間が過ぎていましたね。ただSPが終わって、手の届く位置にいたので、出場枠を逃したときは悔しかったです。良い演技をするときもあれば、悪い演技のときもある。あの試合では悪い方が出てしまったのが残念です」(高橋)

 失意の2人を支えたのが佐藤コーチとダンジェンコーチだった。木原にとっては特に後者からの言葉が身に染みたようだ。

「ネーベルホルン杯が終わったあとに話し合いをしました。『最初に2人が来たときはこんな状態では無理だと思ったけど、あと一歩のところまで来た。私が長野五輪で4位だったときは最悪だった。君は若いじゃないか。現在のトップ選手は28歳とかで、君はまだ始めて8カ月だろ』と言ってくれて……。言われてみて確かにそうだなと。その言葉はすごく励みになりましたね」(木原)

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