「歴史の必然」だったドーハの悲劇=絶望や失望を乗り越えて迎えた新時代

大住良之

W杯初出場をほとんど手中にしていたが

10月28日で「ドーハの悲劇」からちょうど20年が経過する 【写真は共同】

 アルアハリ・クラブ・スタジアムの低いバックスタンドの向こうに、毒々しいまでに赤く大きな満月が昇っていた。その3キロ先にはドーハ国際空港の滑走路、そしてさらに7キロ先にはペルシャ湾が広がっているはずだったが、赤い月を浮かべた東の空はただ黒かった。

 1993年10月28日、午後6時を回ったドーハはすでにとっぷりと日が暮れ、満月の下、アラビア半島の東に突き出た半島国カタールの首都、ドーハ市内の3つのスタジアムでは6つのナショナルチームが死闘を繰り広げていた。

 最初に試合が終わったのはカリファ・スタジアムのサウジアラビア対イラン、4−3。次にカタール・クラブ・スタジアムの韓国対北朝鮮も、3−0で終了のホイッスルを聞いた。

 そのとき、アディショナルタイムに入ったアルアハリ・クラブでは、日本がイラクを2−1でリードしていた。日本代表はワールドカップ(W杯)初出場をほとんど手中にしていた。だがわずか数十秒後、それはまるで満月に魔法をかけられたかのように、きらきらと光を放ちながら掌から消えていった……。

4年後に生きたドーハの教訓

 満月が不吉だったわけではない。4年後、97年11月16日のジョホールバル(マレーシア)、日本代表が延長Vゴールで念願のW杯初出場を成し遂げる瞬間を見守ったのも、大きな月だったからだ。

 97年秋のW杯アジア最終予選は、93年の「ドーハ」以上にタフな戦いだった。日本代表は3カ月間にわたってアジア各地を転々としながら寝食をともにし、ほぼ1週間ごとに計9試合を戦わなければならなかった。

 そしてその期間のほとんどは、猛烈なプレッシャーにさらされ、押しつぶされそうな時間だった。初戦、ウズベキスタンに快勝した後、日本代表は5試合、2カ月間近くにもわたって勝利に見放され、10月下旬の時点ではW杯出場を絶望視されていたからだ。

 しかし当時の加茂周監督の後を継いだ岡田武史監督の下、日本代表は「1パーセントでも可能性が残っている限り、白旗は挙げない」と結束し、歯を食いしばった。ソウルで韓国を破り、カザフスタンを相手に国立競技場でゴールラッシュを見せ、そしてジョホールバルでも後半半ばで1−2とイランにリードを許しながらも追いついて、延長戦も終了間際に岡野雅行のゴールで突き放して歴史をつくったのだ。

 押しつぶされても仕方がない重圧に耐え、絶望して当然の状況にも絶望することを強く拒み続けることができた背景には、「ドーハ」があった。「最後のホイッスルを聞くまでは何が起こるか分からない」という、サッカーで最も重要な教訓があった。ジョホールバルの勝利は、日本のサッカーがW杯に初出場を果たしたということ以上に、サッカーというゲームの怖さを十分に理解したうえで果敢な戦いを展開したこと、「ドーハ」を乗り越えたことを示す、巨大な記念塔だった。

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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