「ジェフ愛」を隠そうとしない人々=J2漫遊記2013 ジェフユナイテッド千葉(後編)

宇都宮徹壱

ターニングポイントとなった2006年

日本代表監督就任会見に臨んだイビチャ・オシム(右)。千葉サポーターの想いは複雑だった 【宇都宮徹壱】

 ワールドカップ(W杯)・ドイツ大会が開催された2006年は、ジェフユナイテッド千葉とそのサポーターにとって、極めて振幅の激しかった1年として深く記憶に刻まれている。前年に完成したフクダ電子アリーナ(通称フクアリ)の効果もあり、1試合平均の入場者数は前年から40.5%増の1万3393人を記録(以後、07年から09年まで1万4000人台をキープ)。また前年に続いて、ナビスコカップ連覇も果たした。前回の決勝ではガンバ大阪に0−0からPK戦までもつれたが、この時は鹿島アントラーズに2−0の完勝。チームのさらなる成長を感じさせる優勝であった。ただし、国立競技場で胴上げされたのは、イビチャ・オシムの息子、アマル・オシムであった。

「あ、オシムって言っちゃったね」――。川淵三郎日本サッカー協会会長(当時)のこの一言が発端となり、千葉は契約満了を待たずにオシム監督を協会に差し出すことを余儀なくされた。オシムの日本代表については、確かに取材者のひとりとして非常に思い出深いものが多々あったのは事実である。しかしながら、この時の千葉サポーターの喪失感と無力感がいかばかりのものであったかについて、部外者といえども多少の想像力はめぐらせるべきであろう。もちろん、自分たちのクラブから代表監督が選ばれるのは誇らしいことだろうし、オシムが代表監督になってから何人もの千葉の選手がA代表のキャップを刻むこととなり、それがフクアリの集客アップにも影響した。だが結果として、オシムが去ってしまってから千葉の迷走が始まったのも、紛れもない事実である。

 06年の千葉は11位でシーズンを終えた。2桁順位は、オシムが監督になった03年以降、初めての(そして久々の)屈辱でもあった。翌07年も残留争いに巻き込まれ、何とか13位でJ1に踏みとどまるも、アマルは解任。これと前後して、いわゆる「オシム・チルドレン」の流出に歯止めがかからなくなる。07年には、当時のキャプテン、阿部勇樹が浦和レッズへ移籍。08年には、水野晃樹(→セルティック)、羽生直剛(→FC東京)、山岸智(→川崎フロンターレ)、水本裕貴(→G大阪)、佐藤勇人(→京都サンガFC)がチームから去っていった。96年にジェフ市原(当時)のジュニアユースに入団して以来、一貫してジェフ一筋だった千葉の守護神、岡本昌弘は当時の状況をこう振り返る。

「あの時は、スタメンの半分がチームを去って、(08年のクラブの)カレンダーに誰もいなくなりました。正直、寂しかったですよ。みんなとずっと一緒にやってきて、タイトルも取って。もちろんプロの世界ですから仕方のない部分もあるけれど、降格したわけでもないのに急に人がいなくなるのって、なかなかないと思いますよ。監督が変わればサッカーも違ってくるけど、そもそも1年かそこらでチームが完成するわけがない。これまで培ってきたアドバンテージがなくなってしまったのも、今思えば残念でしたよね」

「リスクを冒せ」という師の言葉に背中を押されて

千葉一筋のGK岡本昌弘は、06年から始まった選手の流出について「正直、寂しかった」と語る 【宇都宮徹壱】

 では、千葉から去っていた者たちには、どのような想いがあったのだろう。それぞれに、それぞれの想いがあったのは間違いない。ここではスタッフと選手、それぞれの出戻り組に話を聞いてみた。まずはトップチームのコーチである江尻篤彦。彼はオシムが代表監督に引き抜かれる前年の05年、アルビレックス新潟のヘッドコーチに転身している。

「当時、新潟の監督で清商(清水商)の先輩でもあるソリさん(反町康治)から、声をかけていただいたんです。あの頃の新潟はパワーがあったし、自分自身もそろそろ違うチームで仕事がしたいというのもありました。ただ、それ以上にオシムさんの『リスクを冒してでもチャレンジしろ』という言葉が背中を押したんだと思います。自分としては、オシムさんのジェフと対戦して勝ちたかったんだけど、ナビスコで引き分けるのが精いっぱいでしたね。どうしたらオシムさんに勝てるのか、あの頃はずっとソリさんとそんな話をしていたように思います」

 一方で、選手の立場からすると、状況はよりシリアスだった。「オシムの路線は継続する」とはいうものの、クラブの方向性は不透明。代表クラスの選手には、どんどん他クラブからのオファーが舞い込む。これまで育ててくれたクラブへの恩義と、プロフットボーラーとしての活路を見いださなければという焦燥感とのせめぎ合い。オシム政権時代を知る数少ない現役選手のひとり、佐藤勇人は、当時の自分が置かれた状況をこう回想する。

「(06年当時の選手は)みんなオシムさんに育てられた選手ばかりなので、ジェフでオシムさんのサッカーができないのであれば、新しいところでトライしないと、というのはありましたね。あとオシムさん自身が『リスクを冒せ』と、ことあるごとに言っていましたから。自分に関しては、京都の監督だった(加藤)久さんから『ウチでオシムさんのサッカーを実現させるために力を貸してほしい』と言われたのが大きかったですね。京都の選手として、ジェフと対戦するときは、正直、複雑な気持ちでした。ブーイングはある程度、覚悟していたんですけれど、かなり罵声も浴びせられましたから(苦笑)」

 江尻にしても佐藤にしても、指導者と選手という立場の違いを超えて「リスクを冒せ」という師の言葉を自分なりに受け止め、行動に移したように思える。当然、その過程においては、さまざまな葛藤もあったことだろう。それでも結果として、思い出が詰まったクラブにいったんは背を向け、新たな道を模索することを決断する。ここまでは千葉に限らず、どのクラブにもよくある話だ。ただし、佐藤にしても江尻にしても、気が付けばまた千葉に舞い戻っている(江尻に関しては2度目)。こうした現象は何に起因しているのであろうか?

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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