「ジェフ愛」を隠そうとしない人々=J2漫遊記2013 ジェフユナイテッド千葉(後編)

宇都宮徹壱

なぜ、ジェフに戻ってしまうのか?

「嫌いになれないし、ほっとけない」と「ジェフ愛」を語る江尻篤彦コーチは、今年2度目の復帰 【宇都宮徹壱】

 京都に移籍した佐藤に求められたのは、「オシム・サッカーの伝道師」としての役割であった。実際、当人もその役割に積極的だったようだ。しかし、毎年昇降格を繰り返している京都は、佐藤が加入した08年もほどなくして残留争いに四苦八苦。「オシムのサッカーを京都でも」という理想は早々に撤回され、J1残留を第一とする現実的なサッカーへの方針展開を余儀なくされた。その甲斐あって(?)、この年の京都は14位でフィニッシュ。J1残留は、実に6年ぶりの慶事であった。しかし喜びに沸くサポーターとの記念撮影で、佐藤は何とも言えぬ違和感を拭いきれなかったという。

「結局、京都では自分がやりたいサッカーはできなかったですね。理想的なサッカーよりも、J1残留という現実のほうに重きが置かれていましたから。京都の人たちには申し訳ない話ですが、ジェフのことも気になって仕方がなかったんです。08年には奇跡的に残留したけれど、『このままじゃヤバイ』という思いはずっとあったんです。そしたら09年に降格が決まって。あの時はめちゃくちゃ悲しかったですね。その時に気づいたんです。離れてみて初めて、自分にとってのジェフへの思いがこれほど強かったのかと」

 09年に顎(あご)のけがで出場機会が限られ、京都との契約が満了となったときに、千葉からオファーがあった。「今後のキャリアを考えれば、わざわざJ2に行くことはないじゃないか」――。そうした周囲のアドバイスには耳を貸すことなく、佐藤は喜んで古巣へ戻ることを決意する。この時、チームを率いていた江尻もまた、佐藤に負けず劣らずジェフ愛の強い男であった。

「新潟でコーチをした後、ソリさんのU−23日本代表のコーチとして北京五輪(08年)まで協会の仕事をしていたんですけど、それから千葉に戻りました。やっぱり自分がプロサッカー選手として第一歩をしるした場所だし、自分が必要とされているのであれば、行くしかないでしょ。だから(当時のアレックス・ミラー監督の退任を受けて09年に)監督のオファーをもらったときも断れませんでしたね。監督を引き受けたら奥さんに『なんで今なの?』って言われるし、J2に降格したら古河(電工)の先輩方にも非難されたし、散々でしたけどね(苦笑)」

 翌10年、江尻は1年でのJ1復帰を目標に監督続投を引き受ける。しかし結果は4位に終わり、昇格ならず。再び協会での仕事に戻ってU−15日本代表のコーチとなる。ところが、この世代がUAEで開催されるU−17W杯に出場する今年、なぜか千葉のコーチに復帰。当人は多くは語らないが、これには協会内でも少なからず議論があったようだ。

「いや、もちろんFIFA(国際サッカー連盟)の国際大会は自分にとってもいい経験ですし、日の丸をないがしろにするつもりもないですよ。でも、やっぱりジェフのことが気になるんです。たとえば協会で仕事をしていると、時々ジェフの良くない話が聞こえてくるんですよ。そうすると、クラブから離れているとはいえ、やっぱり自分の故郷や家族の悪口を言われているような、いても立ってもいられない気分になる(苦笑)。辛い思い出もあったけど、それでも嫌いになれないし、ほっとけない。奥さんから『家族とジェフ、どっちが大事なの?』ってよく聞かれるけど、答えられませんよね(笑)」

千葉が本気でJ1復帰を目指すのなら

平日でも多くのギャラリーが詰めかける千葉の練習場。サポーターの願いが成就するのはいつ? 【宇都宮徹壱】

 今回、さまざまな千葉の関係者にインタビューした。本稿に登場しなかった人たちも含めて共通していたのが、何とも名状し難い「ジェフ愛」の存在である。もちろん、クラブを愛する気持ちというものは万国共通だ。しかし千葉の場合、「離れてみて初めて分かる」という、(言葉は悪いが)ある種の「腐れ縁」的な愛がとりわけ濃厚なのである。でなければ、選手であれスタッフであれ、一度はクラブと袂(たもと)を分かちながらも、気が付けば古巣のことが気になって「自分が何とかしなければ」と舞い戻ってくることもないだろう。そしてこれは、おそらくサポーターにも共通する心理ではないだろうか。

 そうした「居心地の良さ」が、結局のところJ1復帰を果たせない要因のひとつとなっているという指摘もある。「スポンサーにも恵まれ、サッカー専用スタジアムがあり、クラブハウスや練習場も隣接していて、多くの熱心なサポーターにも愛されている。そうした環境が、逆にハングリー精神を奪っているのではないか」という意見も耳にした。確かに、一理あるかもしれない。だが、それより何より反省すべきは、「J1復帰」に重きを置き過ぎたばかりに、強化の方向性が目まぐるしく変わってしまい、一貫したビジョンを構築できなかったことであろう。もちろん現場は、そのことを十分に認識している。前出の斉藤和夫TD(テクニカル・ダイレクター)は、こう語る。

「(J2に降格した)2010年の時点で、降格した原因をしっかり分析して、もっとしっかりしたビジョンを築くべきでした。それを省いてしまって『すぐに(J1に)戻れるだろう』と考えてしまったのが、一番の失敗だったのではないでしょうか。この3年間を無駄にしないためにも、何かを始めなければならない。サポーターも、単に勝った、負けたではないものを求めていると思いますので」

 その結論として浮上したのが「オシム時代への回帰」であった。斉藤TDによれば、「生真面目さ」、「チームワーク」、「よく走る」は古河電工時代からの伝統だという。その特性を見極めたからこそ、オシムの「考えて走るサッカー」は見事にはまり、千葉の黄金期へとつながった。そして今、チームは鈴木淳監督以下、一丸となって当時のような躍動感あるサッカーを志しながら、悲願のJ1復帰を目指している。

 ここで唐突に話は飛ぶ。10月15日にボスニア・ヘルツェゴビナ代表がリトアニアとのアウエー戦でW杯初出場を決めた際、スタンドで目頭を押さえているオシムの姿が確認された。愛する日本を離れてから4年、ボスニア協会の実質的な会長(正常化委員会委員長)に就任してから1年、72歳の高齢ながら各方面に精力的に働きかけたことで実現した快挙であった(詳細は省くが、オシムがこのポストに就いていなかったらFIFAによるボスニアの資格停止処分は解除されなかっただろう)。直接指導した選手は少なくなったが、オシムもまた「ジェフ愛」に溢れる人である。千葉のJ1復帰という吉報が、遠くサラエボにももたらされることを、取材を終えた今は願わずにはいられない。

<この稿、了。文中敬称略>

(協力:Jリーグ)

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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