「暗黒時代」を支えた地域による支援の輪=奇跡の甲府再建・海野一幸会長 第3回
成績、経営ともに悲惨だった「暗黒時代」
きれいになった選手寮。初めは駐車場も砂利で、外見も中身も廃虚同然だったという 【写真:ヴァンフォーレ甲府】
当然、経営は思わしくなく、2000年度末に1億1280万円の債務超過に陥っていた。2001年2月、その危機的状況下で海野一幸がクラブの社長に就いた。
「まあ、とにかく、ひどいものでしたよ」と海野は振り返る。株式会社であるにもかかわらず、まともな帳簿がなかった。確定申告しようにも書類がそろわず、青色申告もできていなかった。
外部から2人の人物がクラブに介入し、前任社長の深澤孟雄を押しのけ、経営やチーム編成にタッチしていた。「善意によるサポートだったと思うけれど、経営はぐちゃぐちゃな状態だった」と海野は話す。
海野の就任前には、5人のフロントスタッフが血判状を手に「あの2人を追い出さないなら、私たちは辞めます」と社長の深澤に迫っていた。そういう経緯を踏まえ、海野は甲府での最初の仕事として2人を円満な形で退かせた。クラブを健全化するには、どうしても解決しておかなければならない問題だった。
恵まれていなかった選手の生活環境
01年2月、新体制となった甲府は小さな所帯だった。社長・常務(現・輿水順雄社長)の下にクラブスタッフが5人、監督にコーチ(フィジカルコーチとGKコーチを兼任)と育成担当が1人。トレーナー、マネジャーに通訳。このわずか12人でクラブを動かした。海野の社長就任時、すでにチームの編成は終わっていた。ヘイス監督を招聘(しょうへい)し、フレイタス、デイリ、ヴァギネルという3人のブラジル人選手がいた。
プロを名乗ってはいたが、その年俸額は決して夢のあるものではない。ヘイス監督の年俸は360万円、マルコスコーチは240万円。マネジャー、トレーナー、通訳を合わせたスタッフは5人で1300万円しかかけていない。
24人の選手の総年俸は3700万円。「練習生として加入した石原克哉は月5万円の交通費だけだった」と海野は当時の書類を目にしながら語る。倉貫一毅は年俸240万円、川北裕介は200万円、美尾敦と太田圭介は120万円。勝利給は6万円だった。
ヘイス監督は山梨県に協力してもらい、県営住宅に入れてもらった。海野は選手たちがいくつかのアパートに分かれて生活し、しかも生活環境に恵まれていないのが気になった。
その状態を哀れむとともに、「チームの拠点をつくらなければならない」と考えた。そこで県の総務部長であり、甲府の存続を訴え、消滅の危機から救った平嶋彰英に相談し、空いている県の施設を探した。
すると格好の物件が見つかった。甲府市内に遠隔地出身の県立高校生のための寮が何年も使われずに残っていた。3階建てで24部屋、すぐ横に食堂が併設されている。
ただし、住人を失って久しい建物は廃虚のようだった。海野は妻やクラブスタッフの夫人、7、8人のボランティアスタッフの力を借り、数日かけて寮の再生に当たった。
拠点に生まれ変わったかつての高校生の寮
「まるで、お化け屋敷のようでした。海野社長の奥さんが窓を開けて、『まあ、富士山がきれいよ』と言うから行ってみると、奥さんが鼻の頭を網戸につけたらしく、鼻に格子状の真っ黒な跡がついていた」(中島)
トイレは和式で汚れがこびりついている。棚の汚れはタワシを使わないと落ちなかった。廊下を何度も雑巾掛けし、台所の流しを磨き、トイレや風呂場の汚れは塩酸で落とした。「ここに住んでもらわなくてはならないのだから、できる限り清潔にしなくてはと思いましてね」と中島は言う。
ボランティアは自宅から不要のソファやテーブルやテレビを持ち寄った。海野は知り合いの左官屋、電気店、塗装組合などの協力を得て、水漏れを直し、壁を塗り替え、カーテンを掛け替え、外国人の部屋から順に中古のエアコンをつけてもらった。
クラブの経営が苦しいがゆえに、金はかけられない。だから地元の業者に地域貢献として協力を仰いだ。部屋に県の施設から払い下げたベッドを入れ、寮としての体裁を整えると、海野自ら軽トラックで選手を迎えに行き、引っ越しを手伝った。
現在は懇意の寿司屋を調理師兼管理人として迎え入れたことで、選手の食事の質はぐっと上がった。かつての高校生の寮は、甲府の拠点として生まれ変わり、今でもチームはホーム、アウエーにかかわらず、ここに集合してから試合に向かう。以前はシーズン終了後の打ち上げなどの場にもなり、クラブスタッフの夫人らが料理に腕を振るった。