藤田俊哉が目指す“指導者のパイオニア”=新旧代表がそろう引退試合で語る決意

中田徹

紆余曲折を経てつかんだオランダでのプレー

新シーズンからオランダのVVVで指導者としての道を歩む藤田は、VVV会長からユニホームをプレゼントされた 【写真:アフロスポーツ】

 センターサークルの中央にVVVフェンロのハイ・ベルデン会長が現れ、藤田にチームのユニホームをプレゼントした。新シーズンから藤田はオランダへ渡ってVVVでコーチを始めるのだ。
「明日(24日)、会長と朝食を食べながらミーティング。でも、契約のサインはオランダでやると思うよ。ともかく、これだけのことをやったんだから、間違いないでしょう」(藤田)

 この言葉を聞いたとき、2003年の夏のことを思い出した。オランダの中堅クラブ、ユトレヒトへの入団が決まったという前提で、ジュビロは盛大に藤田をヨーロッパへ送り出したが、実際に現地へ来てみると「うちは知らない。だいたい今のユトレヒトにはEU圏外の選手を獲得するお金がない」(ベルガーTD=当時)と交渉が進展してなかったようなのだ。確かに、当時のユトレヒトは資金難に陥っており破産する寸前だった。

 それから両者のハードネゴシエーションが始まり、藤田はジュビロからユトレヒトへ半年延長オプション付きのレンタルによる入団が決まった。期間はたった半年。中田英寿、小野伸二といった成功例があったものの、当時の日本サッカー界は海外移籍に関するノウハウや人脈に乏しかった。

 苦労の末、入団したユトレヒトでのデビューは開幕戦のFCズウォレ戦。チームは1−0で勝利し、先発した藤田は後半40分に途中交代でピッチを後にした。
「俊哉の実力はこんなものじゃない。これから、もっとすごいプレーを見せますよ」と関係者も語っていたが、結局(リーグ)14試合出場で1ゴールに終わった。ジュビロは「俊哉をうちに戻して欲しい」とユトレヒトに主張し、04年1月から藤田はJリーグに復帰することになった。

選手の手本となったプロとしての態度

 オランダのメディアを読み直すと、「オランダでのサッカーになかなか慣れなかった」という論評だ。しかしながら、藤田の人柄やプロフェッショナルな態度はボーイ監督(当時)に「トシは真のスポーツマン。選手たちの手本になった。彼には顔を上げて日本に帰って欲しい」と言わしめた。12月21日のフォーレンダム戦は、わずか5カ月しか所属しなかった選手に対して異例の“藤田俊哉退団試合”として開催され、試合後は選手に肩車されてゴール裏のサポーターまであいさつへ行った。
 日本からやってくるファンへの対応にも、藤田の人柄が表れた。練習場の隣にあるクラブハウスにファンを誘うと、「お待たせー」と言いながらお盆に載せたコーヒーを持ってふるまうこともあったのだ。ファンが「オランダという遠くへ行ってしまった俊哉さんが、逆に近くなった」と感激したのも納得だ。
 
 今、日本人選手がヨーロッパへ移籍するのは珍しいことではなくなった。しかし、日本人指導者がヨーロッパのチームを指揮する例はほとんど聞かない。藤田は自らそのパイオニアとなって、日本サッカー界のレベルアップに貢献しようとしている。S級ライセンス取得の同期生によれば、藤田は「俺たちの世代の指導者が、日本のサッカーを引っ張っていくんだ」と熱く語りかけたという。

 今回の送別試合後、井原正巳(柏レイソルヘッドコーチ)は藤田俊哉にこうエールを贈った。
「今、ヨーロッパで活躍している日本人選手がとても増えている。ただ、指導者が世界で活躍しているかというとまだその時代は来ていない。俊哉がその先陣を切ってくれるわけです。僕たちもそれをしっかり受け止めながら、高い所を目指してもっともっと勉強していかないといけない。俊哉のチャレンジは本当に素晴らしいと思います」

<了>

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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