どこまでも飛んで行け――64歳大井、歩み続ける競技人生=円盤投げ

荒木美晴/MA SPORTS

指からすっぽ抜けた円盤 不完全燃焼に終わる

力いっぱいの投てきも記録は伸びず、10位に終わった大井。3大会連続でのメダル獲得はならなかった 【吉村もと/MA SPORTS】

「プレッシャーはなかったんだけど、空回りしてしまったなぁ」

 大井利江(日本身障者陸連)のロンドン・パラリンピックは、あっけなく幕を閉じた。第9日の6日(現地時間)、陸上男子円盤投げ決勝があり、64歳の大井は、12人中10位の記録に終わり、3大会連続でのメダル獲得はならなかった。
 車いすから移乗して投てき台に腰かけ、そこで上半身を大きくひねって円盤を投げる。投げた3投のうち、1投目の20メートル35が最高で、上位8人が進める4投目以降の投てきに進むことはできなかった。

 車いすクラス(F53)の世界記録保持者(26メートル62)。手の握力がほとんどない大井は、右手の指先のわずかな曲がりに円盤をひっかけて投げる。北京のあと、指の硬直が解けて日常生活は楽になったが、円盤のひっかかりは不安定になった。今回はロンドンの乾燥も大敵で、松ヤニを塗るなど対策を取っていたが、今日は指から円盤がすっぽ抜けてしまった。不完全燃焼で終わり、その表情に無念さをにじませた。

 開会式が行われた8月29日に64歳の誕生日を迎えた。「何かの縁があって、開会式の日が誕生日。今回は何かいいことがあるかな、と思ったけど残念な結果になってしまった」と唇をかむ。

マグロ漁師から円盤投げ選手へ

64歳になっても衰えることのない大井の闘志。「金メダルを取ってもやめないかも」と笑い飛ばした 【吉村もと/MA SPORTS】

 岩手県洋野町で生まれ育った。マグロの遠洋漁業の漁師だった1989年、漁船操業中に漁具が首に落下。胸から下の機能が失われた。リハビリの一環で始めた水泳の大会で記録が出始めると競技として取り組むようになり、パラリンピックを目指すようになった。

 円盤投げを始めたのは49歳のとき。陸上関係者に体格の良さを見初められ、勧められるまま円盤を手にした。最初は難しかったが、そこに魅力を感じた。それからは「マグロを持ち上げて、水槽の中に放り投げる要領」で練習を重ね、記録を伸ばしていった。

 初出場のアテネパラリンピックで銀メダルを獲得。60歳で迎えた北京では、クラス統合のため障害の軽いクラスに入ったが、その中で銅メダルを獲得した。ロンドン出場を目指していた昨年は東日本大震災で被災。海岸近くの自宅は幸い無事だったが、あまりの惨状を前に、練習を続けていいものか悩んだという。日ごろの練習をサポートしてくれる妻の須恵子さんの励ましもあり、練習を再開してからは「被災者に希望を与えたい」とトレーニングに励んだ。

 ロンドンでメダルを取って、応援してくれた被災地の人たちに恩返しをしたい。その願いはかなわなかったが、「もしかしたらロンドンに来られなかったかもしれない。そういう点では、この大舞台に立てたのは本当に幸せだと思います」と感謝の言葉を口にした。

 競技者として年齢の問題は切っても切り離せない。大井の身体を心配する須恵子さんは引退を勧めるが、本人の視線はすでに4年後のリオデジャネイロに向いている。「金メダル取らないとやめられない。いや、金メダルを取ってもやめないかも」と笑い飛ばす。

 以前、還暦を越えてなおも努力を続けるパワーの源は何かと聞いたことがある。すると、大井はこう答えた。

「夢があるんだよね。もっと遠くへ投げたいっていう夢が。生きている限り、みんなにほんの少しでも希望を与えられたら」

 大井利江の競技人生は、まだまだ続く――。

<了>
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著者プロフィール

1998年の長野パラリンピック観戦を機に、パラスポーツの取材を開始。より多くの人に魅力を伝えるべく、国内外の大会に足を運び、スポーツ雑誌やWebサイトに寄稿している。パラリンピックはシドニー大会から東京大会まで、夏季・冬季をあわせて11大会を取材。パラスポーツの報道を専門に行う一般社団法人MA SPORTSの代表を務める。

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