理念の実現に向けたリーグの拡大=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第4回

大住良之

2年目の94年シーズンまで、スタジアムはどこも満員だった 【Jリーグフォト(株)】

「2年間で終わった」と言っていいのか、「2年間続いた」と言ったほうが正確なのか。1993年にスタートし、大きな関心を呼んだJリーグの熱狂は、2年目の94年シーズンが始まっても冷めるところを知らなかった。チケットの大半は前売りであっという間に売り切れ、スタジアムはどこも満員だった。

 しかし、3年目の95年になると空席が目立ちはじめ、急降下が始まった。初年度の10クラブから毎年2クラブずつ増え、95年には14クラブ。「増えすぎて覚えきれない」というファンの声。「取材しきれないし、載せきれない」というメディアの声。だがJリーグは足を止めなかった……。

 Jリーグの初代事務局長、広報室長、理事、常務理事などの立場で2012年3月までリーグ運営に当たってきた佐々木一樹さんに聞く「Jリーグ20年の裏面史」第4回はブームが終わるなか、「拡大」を止めなかった1990年代について。

10クラブから4シーズン目の96年に16クラブに

初年度に参戦できなかった柏も95年シーズンに加入。Jリーグは4年目に16クラブまで増えた 【Jリーグフォト(株)】

「1993年にJリーグがスタートするときに、すでに初年度に参加できなかった3つのクラブが翌年からの参加を望んで手を挙げていました。当時『J1』と呼ばれていた日本フットボールリーグ1部のヤマハ(後のジュビロ磐田)、日立(後の柏レイソル)、フジタ(後のベルマーレ平塚、現湘南ベルマーレ)の3クラブが、Jリーグの準会員として承認されていたのです。Jリーグは、スタート前から『順番待ち』の状態だったのですね」
 初代事務局長だった佐々木さんは、こう振り返る。
「初代チェアマンの川淵三郎さんは、『1つの都道府県に2クラブずつぐらいあってもいい』とずっとおっしゃっていたので、仲間を増やしていくことに積極的でした。10年ぐらいかけて16クラブにまでなったら、その後は2部をつくろうと話していましたね」

 ところが94年にベルマーレ平塚とジュビロ磐田、95年に柏レイソルとセレッソ大阪、そして96年には京都サンガとアビスパ福岡が加入し、わずか4シーズン目に16クラブになってしまった。そしてさらに、全国各地に入会を希望するクラブ、団体が目白押しだった。

「1年目の嵐のような状態がいつまでも続くとは、誰も思っていませんでした。ただ、Jリーグのクラブがそれぞれの地域生活に大きなインパクトを与えていること、そしてそれが一過性でないことは、多くの人が理解していたのではないでしょうか」

ブーム終えん

95年シーズンを境にブームは終えん。徐々に観客数は減少していった 【Jリーグフォト(株)】

 しかし「ブーム終えん」は数字を見てもはっきりしていた。1試合平均観客を見てみよう。
 1993年 1万7976人。
 1994年 1万9598人。
 1995年 1万6922人。
 1996年 1万3353人。
 そして1997年には1万131人にまで落ちた。

 14チームで戦った95年までは総当たり2回戦の「ステージ」を2回繰り返し、それぞれの優勝チームで年間チャンピオンを争う「2ステージ制」だった。95年には、1チームあたりのシーズン試合数がリーグ戦だけで52試合にもなった。

 さすがに16チームでは1シーズン60節にもなってしまうためこの方法は難しく、さらに、土曜日、水曜日とひっきりなしに試合が行われるなか、水曜日の試合でとくに空席が目立ってきたこともあり、96年は基本的に週末だけ、1ステージ制の全30節としたが、空席はさらに増えた。

「チームが増えすぎて覚えきれないという話は、一般のファンからも聞きました。クラブ名も、地域名が先にきたり、後についたりで、分かりにくいという話もありましたね。しかし、わたしたちは時間がたてば浸透していくだろうと考えていました」(佐々木さん)。

「痛かったのは、メディアの反応でしたね。『試合数が多くなっても、スペースは割けないぞ』と言われました。記事が減って、印象が薄れていくようなところがあって……。また試合内容が悪くなっているわけでもないのに、雰囲気で『最近はつまらない』などと書かれることも多くなって、僕には抵抗がありました。もちろん、最初のブームはメディアが盛り上げてくれたおかげなのですが」

観戦者のデータをつかめていなかった

「川淵チェアマンや森健兒専務理事は、スタート時からことあるたびにクラブ経営者たちに『観戦者のデータをしっかりつかんでおけよ』と言っていました。しかしチケットサービス会社を通じて前売りを出せばあっという間に売り切れる状況では、残念ですが、あまり耳を貸すクラブはありませんでしたね。だから減ってきたときに分析もできないし、対応策もたてられませんでした。そうしたなかで、鹿島アントラーズや浦和レッズは、早い段階から地元のファンに見に来てもらうという方針を立て、独自の入場券販売方法などを考えていたので、落ち込みがなかったと思います」(佐々木さん)

「関西では、チーム数の増加が観客減につながったという見方もありました。初年度はガンバ大阪だけだったのが、95年にセレッソ大阪、96年には京都サンガ、97年にはヴィッセル神戸が入った。G大阪にしてみれば、関西全域からファンが集まっていたのが、南大阪の人はC大阪に行ってしまう、そして神戸寄りの人は神戸に、京都寄りの人は京都にと流れていってしまったと……。ひとつのパイを4クラブで分け合うというような意識があったようです」

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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