関塚監督と選手たちの信頼関係=U−23日本代表 0−0 U−23ホンジュラス代表

大住良之

初めて先発したのは5人

GK権田(中央)と両センターバックの安定もあり、日本は無失点でドロー。首位通過を果たした 【Getty Images】

 準々決勝でブラジルと当たるのを避けるために、なんとしても首位で1次リーグを突破したい。だがホンジュラスを相手に力を出し尽くしてしまうと、準々決勝をフレッシュな状態で迎えることができない――。

 スペインとモロッコに連勝した後、U−23日本代表の関塚隆監督は相当迷ったに違いない。これに勝たなければ上位進出はかなわないという状況なら選択肢はそう多くはない。しかし、すでに準々決勝進出は決まっているという状況で、どんな構成のチームを送り出すか、迷わないわけがない。

 その結果、関塚監督は、これまで出番のなかった選手、あっても短時間だった選手を、GK安藤駿介(川崎)を除いて全員先発させた。先発メンバーは前の試合から5人変わった。

 3試合連続先発になったのは、GK権田修一(FC東京)、DF吉田麻也(VVV)、DF鈴木大輔(アルビレックス新潟)、MF山口螢(セレッソ大阪)、そしてFW大津祐樹(メンヘングラッドバッハ)の5人だけ。1試合目のハーフタイムに齋藤学(横浜F・マリノス)と交代し、出場時間が多くはなっていなかった大津を除くと、すべて「守備」の選手である。

「守備が失点をゼロに抑えさえすれば首位を確保できる」

 関塚監督の頭には、そうした計算があったに違いない。
 実際、試合はその予測の通りとなった。初めて先発した5人は、五輪の雰囲気や相手のスピードに慣れていないためか、前半の立ち上がりは不安定なプレーを繰り返した。単純なミスでピンチを迎えたこともあった。しかし時間が経過すると、多くの選手が雰囲気やスピードに慣れ、持っている力を発揮するようになった。

関塚監督の的確な読みと配置

 目に見えて良くなったのはDF村松大輔(清水エスパルス)である。ボランチとしてこのチームに入っていたはずだが、この試合では右サイドバックとしてプレー。最初は相手MFマルティネスのスピードに振り回されたが、次第に間合いを詰められるようになり、やがて相手をコントロールできるようになっただけでなく、自ら先手を取って果敢な攻撃も見せるようになった。

 選手によって「慣れ」の程度にはばらつきはあった。とくに攻撃陣では右MFに入った宇佐美貴史(ホッフェンハイム)とFW杉本健勇(C大阪)が悪戦苦闘していた。だが関塚監督はじっと我慢し、後半も同じメンバーを送り出した。

 すると試合は日本ペースになり、チャンスも生まれ出した。後半半ばになって関塚監督は清武弘嗣(ニュルンベルク)、続いて永井謙佑(名古屋グランパス)を送り出し、何回か決定的なチャンスもつかんだ。終盤は互いに「0−0の引き分けでいい」という状況になったため、共にリスクは冒さなかったが、決して簡単ではない状況下にあって「グループ1位」を確保できたのは、関塚監督が的確に相手の戦力を読み、日本選手の力量と比較して的確に配置した結果だった。

 この試合で目立ったのは、GK権田と両センターバックの安定度だった。権田は前半39分のこの試合唯一の決定的なピンチを見事な反応でセーブし、そのほかの場面では常に落ち着いてプレーしていた。そして吉田と鈴木のコンビは、このまま日本代表にしてもいいのではと思えるほど、マークとカバーを見事にやってのけた。

 このメンバーで首位を懸けた試合に臨ませたのは、関塚監督にとって「ギャンブル」だっただろうか。

 わたしはそうは思わない。左サイドバックの酒井高徳(シュツットガルト)、そして守備的な働きが主体のボランチ山口を含めた守備陣への信頼があったからこそ、5人を変えても十分引き分け以上の結果を残せると判断したのだ。

 その結果、酒井高が右でも左でもハイレベルのプレーができること、村松がサイドバックでも機能すること、山村がこのチームにおける「オリジナルポジション」であるボランチの感覚を取り戻しつつあること、齋藤が攻撃ラインに変化をつける「ジョーカー」になりうることなどが確認できたのは、首位の座を確保したことに劣らない収穫だったのではないか。

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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