体操金メダリスト・塚原直也、ロンドン五輪の先に見据える夢

矢内由美子

出場回数で父を上回ことを目標に

アテネ五輪では団体で金メダルを獲得した。右から2人目が塚原 【Bongarts/Getty Images】

 塚原が初めて五輪に出たのは1996年アトランタ五輪だった。当時19歳。明治大の1年生だった。
 半ば勢いもあって出たアトランタ五輪後で大きな経験を積むと、その後は世界選手権でメダルを獲得する実力をつけていき、2000年シドニー五輪、04年アテネ五輪と3度の五輪に出場した。シドニー五輪では不運もあってメダルを逃したが、アテネ五輪では団体総合の金メダル獲得に大きく貢献。メキシコ五輪、ミュンヘン五輪、モントリオール五輪で計5つの金メダルを獲得している父の光男氏との『父子金メダル』は史上初の快挙だった。

 そのころ、塚原の胸に新たな目標が芽生えた。金メダルの個数で父にかなわないならば、出場回数で父を上回ろうと思ったのだ。

「小学校5年生で体操を始めたころから、僕のライバルは父であり、父を超えたいという一心で体操をしていましたから」

 こうして迎えた北京五輪の選考会。塚原は個人総合で7位になったほか、特化種目のつり輪でも上位ポイントを獲得したが、わずかの差で6人の代表枠に入ることができなかった。

 そのとき、31歳。彼は考えた。
「北京には行けなかったが、自分はまだ成長もできる。世界トップを目指す日本代表に復帰するのは難しいかもしれないが、別の国の代表としてなら五輪を目指すことのできるレベルにいるという自信はある。もう一度、五輪の大舞台で演技したい」

 ここで候補に挙がったのがオーストラリアだった。オーストラリアにはシドニー五輪のころから何度も行っており、親しみがあった。そして、五輪の団体出場ラインまであと一歩という競技レベルが塚原の考えとマッチした。

燃え続ける体操への思い

 塚原は以前から旧ソ連の選手が国籍を変えて五輪に出たケースを実際に見ていたため、「オーストラリア代表として、団体総合の出場権獲得に貢献して五輪を目指す」ということを選択肢の一つとして考えたのは、ある意味不自然ではなかった。

 09年1月にオーストラリアのブリスベーンに渡ると、拠点をオーストラリアへ移し、同国代表選手らとともに日々の練習に励んだ。けれども、滞在日数の不足が響き、昨夏に出した同国の国籍取得の申請は受理されなかった。

 だが、こういう場面でも腐らないのが塚原だ。「やるだけのことはやったので仕方ないし、諦めなければいけないというわけでない」と話す様子はどこかさばさばしていた。運命を受け入れつつ、自身の思いをブレさせない。これこそ塚原らしさだ。

 体操に懸ける思いは、静かだが、決して途切れることのない炎として今日も燃え続けている。
「この後も9月の朝日生命所属の選手として社会人選手権に出ますし、来年の世界選手権の選考大会となるオーストラリア選手権にも出る予定です。可能性がある限り五輪を目指していきたいのです」

 いずれは指導者の道に進み「世界一の指導者になりたい」という思いもある。この先は現役選手を続けながら、選手の指導にも徐々に時間を割いていくことになるのかもしれない。

「ロンドン五輪は世界の潮流をしっかり見て、自分の今後につなげていきたいですね。日本は団体では中国が強いので難しいかもしれませんが、内村の個人総合は勝つでしょう。そうそう、オーストラリアで一緒に練習しているジョシュという選手が個人枠で出るので、彼の応援もしますよ」

 そう話す塚原のに目は、今なお夢を追いかけている輝きがあった。

<了>

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著者プロフィール

北海道生まれ。北海道大卒業後にスポーツニッポン新聞社に入社し、五輪、サッカーなどを担当。06年に退社し、以後フリーランスとして活動。Jリーグ浦和レッズオフィシャルメディア『REDS TOMORROW』編集長を務める。近著に『ザック・ジャパンの流儀』(学研新書)

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