順風満帆ではなかったプロサッカーの船出=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第2回
1993年Jリーグ開幕当初のカシマスタジアム 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】
「プロリーグ設立準備室」事務局長からJリーグの初代事務局長、広報室長、理事、常務理事などの立場で2012年3月までリーグ運営に当たってきた佐々木一樹さんに聞く「Jリーグ20年の裏面史」の第2回は、1992年、Jリーグ最初の公式戦となった「ヤマザキナビスコカップ」開幕までの裏話をお届けする。
大半が企業チームだった日本リーグ時代
当時のJSLは1部12チーム、2部16チーム。28チーム中24が「企業チーム」、すなわち原則としてひとつの会社の社員で構成されたサッカー部だった(それ以外の形態だったのは、読売サッカークラブ、甲府サッカークラブ、京都紫光サッカークラブ、そして読売サッカークラブジュニオール。ただこれらのクラブも法人格をもっていたわけではなかった)。
「企業チーム」のなかでも実態はさまざまで、純然たるプロ選手をもつチームも少なくなかった。しかし多くの選手の職業(社会的な立場)は「会社員」だった。Jリーグに加盟することになったチームは例外なく独立の法人となることを求められたが、選手のなかには、「会社員」の立場を捨て、将来が見えない「プロサッカー選手」となることを避け、クラブの母体企業の社員のままで通した者も少なくなかった。
日産でマネジャーを務めていた佐々木さんはこう語る。
「日本リーグが終わるころの日産では、多くの選手が『契約社員』という形で、実際にはサッカーを仕事にしていました。だからプロ化は自然な流れだった。プロリーグをスタートさせることが正式に決まったとき、柱谷哲二(現水戸ホーリーホック監督)や木村和司(横浜F・マリノス前監督)に、『おまえら、これから本当にプロとして飯を食わせてやるぞ』などとかっこいいことを言った覚えがあります。しかし彼らでさえ、『本当にできるんですか』と半信半疑でした。それまでも一般の社員より少し恵まれた待遇で、サッカーだけでよかったのですから、『現状維持でOK』という感じがなきにしもあらずでしたね」
それを変えたのは、「もっとうまくなりたい、もっと強くなりたい」という気持ちだったという。サッカーは国内で完結するものではなく、国際的な競争がある。世界と戦える選手になりたい、ワールドカップに出たいという「志」が、最終的に選手たちを安定した生活から「プロサッカー選手」へと踏み切らせる力となった。
「その結果、Jリーグは誰に強制されるわけでもなく、最初から選手自身が必死にプレーするという形になったのだと思っています」
驚かせた鹿島と清水の参入
その結果を受けて1月30日に「プロリーグ検討委員会」が開催されて10団体を内定し、2月14日に正式発表された。
多くの人を驚かせたのは、そのなかに住友金属(現在の鹿島アントラーズ)と清水FC(現在の清水エスパルス)が入っていたことだった。JSL1部からの移行が大多数のなか、住友金属は2部、そして清水FCは実質的にまだチームがない状態だったからだ。
「鹿島のことはよく知られていますが、茨城県が屋根付きの専用スタジアムを建設することを確約してくれたことが決定的な要因になりました」
静岡県ではヤマハがJSL1部の強豪で、参加意思を表明していた。そこに清水でチームをつくりたいという強力な運動が起こった。当時から清水は日本一のサッカーどころで、高校サッカーで数々の優勝校を出し、JSLの選手だけでなく日本代表選手も多数輩出していた。プロサッカーチームを大きく育てる「ホームタウン」があるとしたら、清水以上の候補地はなかった。検討委員会ではヤマハと清水がひとつになって新しいクラブをつくったらどうかと働きかけたが、ともに「単独で参加」を希望した。
決め手になったのは、ここでもスタジアムだった。ヤマハは自前の小さなスタジアムを持っていたが、参加条件には合わなかった。清水には、91年の高校総体のためにつくられた日本平運動公園球技場があった。
「ところが、ゴール裏は芝生席で、施設も何もかも不十分だった。決まったあとで、プロサッカーリーグ設立準備室から森健兒さん(当時:競技委員長/後のJリーグ専務理事)が行って『これではだめだ!』と強く言ったら、すぐに改修の動きが始まったのです」