猫ひろし問題で考えるアスリートの国籍と五輪=為末大インタビュー
スポーツに求められる品格
先進国ではスポーツに「品格」のようなものが求められると為末は分析する 【スポーツナビ】
「米国のロジックって面白くて、レベルの高い海外の選手を招き入れることで、自国の選手のレベルアップを狙っている。でもって、あわよくば米国人にしちゃえって(笑)。ただし、お金で選手を引っ張るようなやり方じゃなく、米国が気に入ればどうぞ、というスタンスです。そういう感覚は人種が入り乱れる米国ならではだし、国の発展のステージにもよると思います」
世界には大きく分けて発展途上国と先進国とがある。中東諸国やアフリカなどの発展途上国では、自国の存在感を高める手段として国策にスポーツが取り込まれ、五輪のような世界的なイベントで国力を顕示することが大きなモチベーションとなる。一方、先進国ではスポーツに「品格」のようなものが求められると為末は分析する。
「成熟した国では矜恃(きょうじ)の精神みたいなものが出てきて、強い選手を金で引っ張ってきてメダルを取っても、品がないだろうと思っている。だから、欧米では結果も大事だけど、そこにたどり着くまでの努力や社会にもたらす影響が評価されるんです。それは日本も同じですけど、日本の場合は途上期だった時代も品格を大事にしていて、倫理に反することはやりたくないという姿勢があった」
そうした日本人の世界観を、為末は「道」に見るという。柔道や剣道、華道や茶道など、日本人が突き詰めていく「道」の世界には日本人が考える以上の魅力がある。欧米諸国でも長く競技を続けている選手やコーチは、その意味を見いだそうと「禅」に興味を抱く者が少なくないそうだ。
五輪は国家間の競争か?
北京五輪のエアピストル表彰式で、肩を抱き合うロシアのパデリナ(左)とグルジアのサルクワゼ 【Getty Images】
「『アイデンティファイ(identify)』という言葉をご存知でしょうか。自分の帰属を明確にし、自分が何者か、という感覚を持つことをいうんですが、それが強すぎると紛争が起き、逆にみんな一緒でいいじゃないかというユートピア的な世界でもまた、ゲリラ的紛争が起こるといいます。つまり、人には心地の良い『アイデンティファイ』の領域があるんですね」
スポーツも帰属意識が高すぎるとメダル至上主義に走り、五輪本来の連帯、フェアネス(公平さ)、相互理解などの精神を欠く。例えば1908年に開かれた第4回ロンドン大会。かつて正式種目だった綱引きで、米国と英国が判定をめぐり激しく対立した。これが布石となって陸上でも走路妨害をめぐる衝突が起き、米国が再レースをボイコットするという不祥事に発展している。
この事態を重く見た時の国際五輪委員会会長にして、“近代五輪の父”と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵は「(五輪は)参加することに意義がある」という名言を残した。このあとには、「人生において重要なことは、成功することでなく、努力することである。根本的なことは征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある」との言葉が続く。
また、紛争解決にスポーツを取り入れる例は世界中にあり、「オリンピック・トゥルース(休戦)」と呼ばれる平和への取り組みが五輪にもある。開催期間中は、どの国・地域も休戦を誓うよう呼び掛けているのだ。
最近では2008年の第29回北京大会が記憶に新しい。自治州をめぐり、激しい戦闘を繰り広げていたロシアとグルジアの選手がそろって表彰台に上がり、熱い抱擁を交わして祖国に五輪期間中の休戦を訴えたのだ。「スポーツについていえば、私たちの友情が壊れることはない。選手や一般の人々の間に憎しみはないはず」と。
五輪でクローズアップされる国という単位はおそらく、「心地の良いアイデンティファイの領域」なのだろう。国を意識することで団結や競争のモチベーションが生まれ、競技をより高い次元へと押し上げる。そのパフォーマンスや精神は観衆の心を打つ。そうした五輪の魅力を持続していくためにも、選手の国籍問題について深く考えていく必要があるだろう。
<了>
1978年5月3日生まれ、広島県出身。2001年世界選手権・エドモントン大会、05年ヘルシンキ大会で2度、400メートルハードルで銅メダルに輝く。五輪は00年シドニー大会からアテネ大会、北京大会と連続出場。12年ロンドン五輪で4大会連続の出場を目指す。Twitterアカウントは @daijapan