柿谷曜一朗、早熟の天才が過ごした雌伏の時=精神的な成長を遂げ、“帰るべき場所”へ

小田尚史

度重なる遅刻、C大阪から徳島への期限付き移籍

徳島への移籍は柿谷に精神的な成長を促した。C大阪時代の遅刻癖もなくなり、副将としてチームをけん引 【Getty Images】

 それは、2009年J2第3節・セレッソ大阪対栃木SC戦の試合後の記者会見での出来事だった。当時のC大阪の指揮官・レヴィー・クルピが唐突に切り出した。「シンジは本当にプロフェッショナルな選手で、常に前向きにベストを尽くす気持ちを持っている。その点がヨウイチロウと違うところ。ヨウイチロウはもっと責任感を持ってプレーしなければならない。ヨウイチロウは今年だけで練習に5回遅刻している。シンジとヨウイチロウは対照的で、シンジの場合はプロフェッショナルとして責任感が強いがゆえに、ミスを恐れてしまうところがある。逆にヨウイチロウは責任感がないがゆえに、時として非常に勇気あるプレーができる。対照的な二人だが、そういったところを変えていけば、2人とも間違いなく将来日本を代表する選手になる」。

 香川真司と柿谷曜一朗。当時、20歳前後であった両者の才能に対して最大限の評価を下していたクルピだが、ことサッカーに取り組む姿勢の違いを、公の場で鋭く指摘した。香川のその後については、ここであらためて記す必要もないだろう。一方の柿谷はこのシーズン、2シャドーのレギュラーを務めていた香川と乾貴士が不在の第20節の岡山戦で2得点を挙げて勝利に貢献するも、翌日の練習にまたしても遅刻。「チームやサポーターに対する敬意が見られない。セレッソを象徴する選手になるためには、プレーだけでなく、すべての意味で高い意識を持たないといけない」とクルピの逆鱗(げきりん)に触れ、2009シーズン途中でのJ2徳島ヴォルティスへの期限付き移籍が決まった。

充実した環境で遂げた精神的な成長

 大阪から海を隔てて車で約2時間。合宿所のような、山奥にある徳島の練習場。一見、厳しい環境に追い込まれたかに見えたが、徳島の練習環境は、J2では異例とも言える立派なものだった。クラブハウスはもちろん、風呂、サウナに筋トレルーム。天然芝が2面あり、医療設備も整っている。サッカーに打ち込むには最適の環境だった。さらに、この地で柿谷は、後に恩師と慕うことになる美濃部直彦(現・京都産業大ヘッドコーチ)と出会う。

 選手との個別の対話は少ないクルピと違い、京都の育成出身の美濃部は、柿谷と何度も粘り強く対話を繰り返した。時に、「香川や乾にあって、お前に足りないものは何か」といった直接的な言葉で刺激することもあった。徳島に来た当初は危機感を持っていたメンタルが緩みかけている、と見るや、即座に言葉で引き締めた。美濃部はそれを、“注射”と呼び、「今日は強めのやつを打ってやった(笑)」と、したり顔で話すこともあった。

 移籍した初年度は、“注射”の回数も多かった。例えば、第39節の愛媛との四国ダービー。徳島は勝利したが、柿谷はベンチスタートを命じられ、出場も後半のラスト15分間にとどまった。試合後にサポーターと勝利を分かち合い、チームメートがピッチを後にする中、柿谷は一瞬、不満気な態度を見せた。それを美濃部が見逃すはずもなく、厳しく叱責(しっせき)した。ただし、単にしかるだけではなく、柿谷に気持ち良くプレーさせるための配慮を欠かさなかったことも付け加えておきたい。

「曜一朗が豊かな才能を持っていることは、誰もが一目で分かる。ただ、それでも今J2のここにいるということは、何かが足りないということ。自分が曜一朗を変えるとか、そんなことを言うつもりはないけど、彼にとって必要だと思われることを言い続けることで、彼のサッカー人生が変わるきっかけになれば。将来的に、徳島に来て良かった、と思えるようなキャリアになってくれればいい」

 柿谷について、当時の美濃部は、このようなことを何度も言っていた。そういった親心とも言える美濃部の熱心な指導は、次第に柿谷にも伝わる。徳島移籍3年目となった昨季は副将も任され、最終節までJ1昇格を争ったチームをけん引した。途中交代を命じられた試合後も、「最後までピッチに立てなくて残念。監督に、最後までピッチに残しておきたい、と思われるような選手になりたい」という殊勝なコメントも残すなど、精神的な成長も見て取れた。最終的に、目標のJ1昇格はかなわなかったが、徳島の2年半で経験した試合数は101。弱冠22才にして、すでにJリーグ通算試合数は149を数えている。

 C大阪を放出された直接の原因にもなった遅刻癖も、徳島ではチームメートと同じアパートに住み、ともにクラブハウスに通うことで改善され、その後はJ2最多の408試合出場記録を持つ倉貫一毅(現・京都サンガF.C.)の高いプロ意識に感化され、練習開始前の準備も自然と行うようになった。プロとして飛躍するための下地を作った徳島時代であった。余談になるが、昨季の東日本大震災による中断期間中に、C大阪対徳島の練習試合がC大阪の練習場で行われた際、柿谷は試合後にクルピの元へ歩み寄り、握手と言葉を交わした。クルピはそこで、「ゴールという結果で、自分の価値を示していけ」と香川、乾、家長昭博、清武弘嗣といった歴代の攻撃的MFの選手と同じ言葉を柿谷に投げかけ、エールを送った。両者のわだかまりが解けた瞬間として、スタンドからは大きな拍手が送られた。

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著者プロフィール

1980年生まれ。兵庫県出身。漫画『キャプテン翼』の影響を受け、幼少時よりサッカーを始める。中学入学と同時にJリーグが開幕。高校時代に記者を志す。関西大学社会学部を卒業後、番組制作会社勤務などを経て、2009年シーズンよりサッカー専門新聞『EL GOLAZO』のセレッソ大阪、徳島ヴォルティス担当としてサッカーライター業をスタート。2014年シーズンよりC大阪専属として、取材・執筆活動を行なっている。

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