川崎憲次郎が振り返る現役時代の栄光と挫折
挫折の中で身にしみた一言 「オレはこの人のためにやろう」
ファンからの一言で前向きな気持ちを取り戻した 【写真:江藤大作】
悔しかった。いつまでたっても痛みが取れない。やっぱりつらかったよね。野球ができないことが一番つらかった。自分が一番好きなこと、投げることができないんだもん。まったく予想していなかった。2003年からようやくピッチングができるようになったけど、それでも引退するまで、最後まで痛みが消えることはなかった。もうずっと薬漬け……。注射を打つと筋肉がもろくなるから飲み薬と尻から入れる薬で…。どこの病院でも原因が分からなかった。
――ファンからのヤジやバッシングはありましたか?
高い給料をもらっているわけだから「給料泥棒」と言われたり、「何をやっているんだ」「辞めてしまえ」とか……。たいがいのヤジはすべて言われた。3年目はヤケクソになりかけて「もう辞めようかな」と思ったこともある。
――それでも辞めませんでした。踏みとどまらせたのは何ですか?
ある男のファンの人が、オレがファーム(名古屋球場)で練習をしているとき、「カワサキ〜、(1軍のいる)ナゴヤドームで待ってるからな!」って……。その言葉が、オレをもう一回奮い立たせてくれた。あの一言がなかったら、ちょっと続けていたか分からなかった。そういう人がいてくれたからこそ、たった1人のために、オレはこの人のためにやろう、と。
――そこから何かが変わったんですね。
移籍したのに何もやっていないから焦る。高い給料をもらって雇われた責任もある。投げられないけど、今できることを一生懸命にやろう。自分自身を投げ出さないで、トレーニングでもランニングでも、今できることを一生懸命、できる限りのことをやろう、と。野球人生はもう長くないかもしれない。それならプロ野球選手として悔いを残さないように、ひとつずつ大事にいこうと。やっぱりプロ野球選手は自分の夢だったから……。
選んだ道が途中でうまくいかなくなっても、中途半端に投げ出さない。それは自分を大切にしている人ができること。選んできた道を否定しない。夢を粗末に扱わない。周りが敵だらけになっても、自分だけは最後まで“自分の味方”であり続けたい。
『川崎祭』という名の嫌がらせ…そこで経験したこと
10何位につけているときは、新聞記者から「どうですか?」と聞かれて「名前が出ること自体、ありがたい」と話していた。ファンからの叱咤激励だと思って……。それが1位になっちゃって、中日担当の記者だけでなく、週刊誌の記者までウワーッと来た。
――最終的には91万票以上を獲得し、2位の井川慶投手(阪神)に約5万票の差を付けて1位。でも出場は辞退しました。
もちろん辞退した。オールスターの意味が分かっているからね。あそこは選ばれた人、成績を残した人が出る場所。小さいころからTVで見てきた憧れの舞台だから。勝ってもいないのに出る資格はない。
――「多少のけがをしてプレーしている選手に申し訳ない気持ちでいっぱい」と選手会の公式HPに声明文を掲載しました。被害者の川崎さんが謝罪するのも変な話だと思うのですが?
オレがしでかしたわけじゃないけど、何かこっちが悪いような感じになって……。家族や友人の反応? 何もなかった。チーム内でからかわれたことも全くなかった。相当、気を使ってくれていたと思う。
――誰かをターゲットにした嫌がらせ。ネット炎上やいじめ、裏サイトはインターネットの闇の部分。自殺する人まで生み出す恐ろしい集団犯罪ですよね。
見えないからやるんだよ。実際に面と向かって言える人は、どれくらいいるんだろう? ネットがなかった時代は1対1のケンカで収まっていた。ネットは姿も見えないし、名前も分からない。心の触れ合いが通じ合わない部分もある。情報が一気に一瞬で流れちゃうのが怖い。
――子供を持つ親の立場として、このような事件をどう考えますか?
息子がいたら「勝つまでケンカしろ」と言う。「陰険なことしねえで、オレが見ている前でやれ」と。卑怯なことはしたくないし、子供にもさせたくない。自分が殴られたらどこまで痛いかを知るのは大事。
――川崎さんが人生相談室を開いたら説得力がありそうですね。
良いときも悪いときも知っているからね。中日の時代がなかったらいまの自分はない。つらい時期を過ごしたけど得るものはあった。確かにものすごくしんどいしつらい……。だけど、それがあったから下のヤツに伝えられる。「悪いとき、どうしたらいいですか?」と聞かれても、失敗していない人はつらさを知らないから分からない。説得力がない。だから経験は大事なんだよ。
人は自分の経験を指針にして、世界を見つめている。苦しい時期を知っているから、今が幸せだと気づける。つらい状況にある人の心が分かる。“自分の苦しさ”を“人への優しさ”へ転換する――。川崎さんは今年4度、被災地で炊き出しを行った。気さくに自分をさらけ出す。『柔らかい強さ』を持った人だ。強さとは“マイナスを受け入れる柔軟性”のこと。それは経験と無関係ではない。
<了>
川崎憲次郎プロフィール
1988年、大分県立津久見高校3年のとき甲子園に春夏連続出場。ベスト8入りを果たし、同年ドラフトでヤクルトの1位指名で入団。 1989年〜2000年までヤクルトのエース投手として活躍。威力のある直球とシュートを武器にヤクルトの黄金時代を支えた。シュートを習得した1998年、17勝をあげて最多賞、沢村賞を受賞。“巨人キラー”と呼ばれる。
2000年FA宣言。米国メジャーリーグのボストン・レッドソックスからの獲得オファーを断り、中日へ移籍。当時では破格の4年契約(3年間は年俸2億円、4年目は出来高制)が話題になる。
移籍直後の2001年春、右肩痛を発症。3年間一軍で登板出来ず、2004年限りで引退。
背番号はヤクルトで「17」、中日で「20」。1メートル80、78キロ。右投げ右打ち。